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福居夜話 第6話 福輪寺縄手 その2

はじめに                
1 物語のなかの福輪寺縄手       
2 福輪寺縄手はどこからどこまでだったか
3 福輪寺縄手は福居のどこを通っていたか
4 福輪寺縄手と山陽道         
5 福輪寺について           
おわりに                

福居夜話第5から続く。


4 福輪寺縄手と山陽道

 福輪寺縄手と山陽道の関係を考える際には、山陽道が時代によって経路変遷していることを念頭に置いておく必要があります。又福輪寺縄手と関わる古代の山陽道については、元々参照できる史料が限られ、ルートの想定が難しい上に、研究や発掘調査の進展により経路の見直しが続けられていることにも考慮が必要です。
 以下では、福輪寺縄手に関連する範囲で山陽道についてみていきたいと思います。

4.1 原初山陽道
 大化の改新(645)にはじまる古代律令国家では、地方行政区を七道に分け、道ごとに中央からの交通路(官道*11)を整備していました。山陽道もそのひとつですが、中央と筑紫太宰府を結ぶ街道として「最も早く開通した幹線道路」(田名網宏)とされています。
 官道は、駅路(えきろ)とも言われ、「中央政府と太宰府・国府などを結んで、政令伝達、国司の行政報告、緊急事態の急報などのための官吏や公使の交通路」(『国史大辞典』)で、原則として三十里(大宝令では、一里は五町、したがって約16km)ごとに駅家(えきか)という「駅使の往来に対して、その交通機関である駅馬と駅子の継ぎたてや、駅使の休息・宿泊の施設」(同上)が設けられました。
 この駅家がどこにあったかがわかれば、道がどのルートを辿っていたのかを知る手がかりになります。それでは、古代山陽道の内、とくに備前国には、どのような駅家があったのでしょうか。時代は下がりますが、『延喜式』(延長5(927)年完成、康保4(967)年施行)に次のような記録があります。

『延喜式 巻第二十八 兵部 隼人』(兵部省)
「諸国駅伝馬(中略)
備前国駅馬 坂長 珂磨 高月各廿疋 津高十四疋」

 すなわち、備前国には東から「坂長(さかなが)」「珂磨(かま)」「高月(たかつき)」及び「津高(つたか)」の4つの駅家があったということです。これら駅家の所在地や駅家間のルートについては、大体次のように想定されています。(下図「備前国における山陽道の変遷」(足利健亮氏)を参照)
 *11 山陽道以外の官道としては、東海道、東山道、北陸道、山陰道、南海道、西海道があった。官道は、重要性と交通量にしたがって、大路(山陽道)、中路(東海道、東山道)、小路(北陸道、山陰道、南海道、西海道)に分けられていた。

(1) 播磨国から備前国へのルート
 播磨国から備前国へは、船坂峠を越えて入ります。坂長駅は、船坂峠を下ったところ、現在の備前市三石のあたりと想定されています。

(2) 坂長駅から珂磨駅へのルート
 坂長駅からは、金剛川に沿って西に進み、和気のあたりで吉井川を渡って、珂磨駅に至ります。珂磨駅は、現在の赤磐市松木のあたりと想定されています。
 なお、珂磨駅は、延暦7(788年)頃に吉井川の東側にあった藤野駅を廃して新たに設けられた駅家です。

(3) 珂磨駅から高月駅へのルート
 珂磨駅からは、沢原、可真下を通り、日古木峠を越えて南西方向に進んで、高月駅に至ります。高月駅は、現在の赤磐市馬屋のあたりに想定されています。

(4) 高月駅から津高駅へのルート
 さて、いよいよ津島(福居)に関わるルートです。津高駅は、現在の北区辛川市場のあたりと北区富原の富原遺跡あたりという二つの説があります。いずれにしても、高月駅からは、牟佐で旭川を渡り、牧石に出て旭川の右岸を南下し、それから西に向かい津高駅を目指すことになりますが、この西行に二つのルートが想定されています。
 ひとつは、半田山の南側を通るルートで、三野、江道から、福輪寺縄手を通り、都月坂(戸月峠)又は笹が瀬をぬけて、富原、辛川市場に至るルートです。江戸時代以降、多く説がこのルートを古代山陽道としています。例えば、『備陽国誌』(1736)では、

「古大路*12(中略)
 高月驛より津高驛に至る。此間岩田村・馬屋村・牟佐村(西大川を渡り)御野郡牧石郷を通り三野村より福林寺畷にいたり、津高郡富原村を歴て辛川村に至る。」とあります。
 *12 古代山陽道のこと。

 もうひとつは、足利健亮氏による説で、半田町あたりから半田山の北側、標高95メートルの峠を越えて富原、辛川市場に至るルートです(左図矢印。クリックで拡大)。半田山南のルートに比べて、距離が短いこと、古代の官道が「最短距離の直線を原則としている点から(中略)原山陽道の復原に関するかぎり後者の可能性が高い」(『日本歴史地名辞典』)というのが近年の理解のようです。
 この半田山の北側ルートについては、平成2年から3年にかけて実施された津高団地遺跡群の発掘調査において、半田山の北に、標高34mから100mに伸びる幅5〜6mの東西古道が発見されたことにより、遺跡面からも裏付けられるかたちになりました。

4.2 福輪寺縄手を通るルート 〜 山陽道「支路」 〜
 上記のように原初山陽道が半田山の北側を通るルートであったとすると、福輪寺縄手は全く山陽道とは関係がなかったかというとそうではありません。
 壬申の乱(672)の後、吉備国は、備前、備中、備後の三国に分国され、それぞれに地方行政を司る国庁が置かれます。国庁が置かれた場所を国府と言いますが、備前国の国府の所在地は、現在の北区国府市場あたりと想定されています。しかし、ここは上記の原初山陽道のルート上にはありません。それゆえ、足利健亮氏は、高月駅から牟佐に至る途中で、南に下り、竜の口山の東側の峠を越えて土田に出て西進し、備前国府に至る別ルートが設けられたとしています。このルートでは、さらに備前国府からそのまま西に進み、三野で旭川を渡って、津島に至り、「福輪寺縄手」を通る直線道路が整備され、そこから都月坂(戸月峠)又は笹が瀬を経由して、富原で山陽道につながると想定されます。『平家物語』(長門本)にも三野で旭川を渡るという記述があることは既に紹介したとおりです。足利氏は、このルートを山陽道「支路」*13と位置付け、この「支路」が備前国府への往来の増加を契機として、半田山北側の「峠越の道にとってかわって主道の地位にのぼった」とされています。つまり、福輪寺縄手は、備前国府が置かれて以降、新たに山陽道「支路」として整備され、やがて「主道の地位にのぼった」道筋の一部であったということです。
 さて、この道筋がいつ頃から「福輪寺縄手」と呼ばれるようになったかということですが、名前の由来である福輪寺の創建等の時期が全く不明ですので、今のところ「福輪寺の起源が源平以前にある」(『岡山市史 第1』)ということから想定するほかなさそうです。

 中世になると、三石から右図(クリックで拡大)の近世山陽道とほぼ同じルートで西南に進み、「国府」に至る道筋が使われるようになったようです。そして(2-4)の文書にあるように「元亀天正之頃まで」は福輪寺縄手を通って富原、辛川に向かったと考えられます。しかし、その後宇喜多秀家により山陽道が岡山城下を通るようにルート変更されると、「旅人古道ヲハ不通、城下ヲ往来ス」(『備前記』)るようになり、福輪寺縄手は山陽道からはずれて、その存在さえもあやふやなものになっていったと推測されます。足利氏が作成した右図「備前における山陽道の変遷」には、原初山陽道、その支路(後の迂回路)及び近世の山陽道の道筋が示されています。
 *13 近年では、中村太一氏や草原孝典氏による「支路」を原山陽道とする見解もあるようです。


5 福輪寺について

 さて、福輪寺縄手の名前の由来となったとされる福輪寺についてもみてみましょう。福輪寺の創建時期・由来を示した記録や福輪寺がどこにあったかがわかる史跡は現存していません。
 『平家物語』や『源平盛衰記』には、「福輪寺縄手」についての言及はありますが、「福輪寺」そのものについては何も書かれていません。
 以下に福輪寺について言及している記録を挙げてみます。

(5-1)大覚大僧正書簡(蓮昌寺蔵)

 「福輪寺御堂上葺事 日実
被題申候 面々少仏事
御志人々者 あいたかいに
勧進候て 助成合力候へく候(以下略)」

 (福輪寺の御堂の屋根葺きのことは、日実が
【????】 各々少しでも仏事に
お志のある人々は お互いに
寄付集めをして 援助・力添えをすべきでしょう。)

(5-2)『吉備前鑑』(貞享・元禄頃)
 「一 福隆寺 福輪とも福林とも云ふ、道福井の上にあり。」

(5-3)『和気絹』(1709)
「一 福林寺跡。津島村の内福井の上にあり。福隆とも、福輪とも。」

(5-4)『備陽記』(石丸定良 享保6(1729))
「御野郡古寺跡之事
(中略)
宗旨山号不知 福隆寺 福林寺 福輪寺トモ書 津島村ノ枝市場ノ東山スソニアリ」

(5-5)『撮要録』「公儀より御尋有之由に付書出」(享保17年(1732))

 「往昔津島之内西坂と申所に福輪寺と申寺有之由 此寺に日蓮宗の寺大覚暫く滞留有之に付 福林寺之跡を大覚屋敷と申候 右之寺致退転 其後同村之内奥坂と申所に妙善寺と申寺建立處 是も寛文年中退転仕 今は寺無御座候」

(むかし津島の内西坂というところに福輪寺という寺があったとのことです。この寺に日蓮宗のお坊さんの大覚がしばらく滞留したことから、福林寺の跡を大覚屋敷と言っています。右の寺が退転して、その後同村の奥坂という所に妙善寺という寺が建立されましたが、これも寛文年中に退転し、今はもうお寺はありません。)

(5-6)『備陽国誌』(1736)
「廃寺
(中略)
鷲林山妙善寺 奥坂村。日蓮宗。 古は市場村に有り。福林寺といふ。大覚上人の創造なり。其後当所へ移し妙善寺といふ。松田将監母妙善の建立といふ。退転時代不詳。大覚上人の書簡、今に岡山蓮昌寺に有り。」

(5-7)『備前軍記』(土肥経平 安永3(1774))
 「此権頭元隆は、去る文明五年富山の城にて病死す。是を津島村の福隆寺に葬る。松田氏代々日蓮宗を崇信しける故に此の寺を日蓮宗に改め、元隆が法名妙善といふ故に、是を寺号として妙善寺と改むるといへり。」

(5-8)『寸簸之塵』(土肥経平 安永7(1778))
 「福隆寺は津島村の麓に有し寺也。後は此寺日蓮宗の道場となり妙善寺といひ、又夫も寛文中に退転して、寺跡残れり。(今堂地の礎残り、又妙善寺と銘をほり付けたる石の水鉢あり)」

まず、上記記録の内容を整理してみましょう。
① 福輪寺は、福井(福居)の上にあった。(5-2)(5-3)
② 福輪寺は、市場村、市場の東山すそ又は西坂にあった。(5-4)(5-5)(5-6)
③ 福輪寺の宗旨、山号は、わからない。(5-4)
④ 福輪寺は、奥坂に移されて、妙善寺と改号された。松田将監母妙善が建立した。(5-6)
⑤ 松田*14元隆の法名をとって妙善寺と改号された。(5-7)
 *14 備前松田氏は、初代元国が正和2(1313)年備前国御野郡伊福郷を与えられて、富山城を居城として移り住んだのを嚆矢とする。後に津高郡金川城に本拠を移して、永禄13(1569)年まで十三代続いた。第2代元喬の代に大覚大僧正の信徒となり、代々日蓮宗を崇信した。元隆(元澄 1390-1473)は第7代。
⑥ 妙善寺は、寛文年間に退転した。(5-4)(5-7)

5-1 福輪寺であった時期
 福輪寺に関する最も古い記録は、(5-1)の大覚大僧正妙実の書簡です。この書簡には年号が記されていないのですが、大覚大僧正が備州で日蓮宗を弘めたのが正慶から康永(1332〜1342)頃とされていますので、それ以後のものと考えられています。書簡の内容は、福輪寺の上葺のための寄付を西国の門徒に求めたものです。書簡にある「日実」は、大覚大僧正の弟子で、大覚大僧正が京都妙顕寺の二世となった後も福輪寺に逗留して、寺の復興に努めた人物とされます。寺の上葺事業もその一環だったのかも知れません。日実上人(1318〜1378)は、後に京都妙覚寺を開創しますが、妙覚寺開創後再び備前にもどってこの地で遷化されたと伝えられています。
 伝えられている逸話によれば、福輪寺は、備前松田氏第2代の松田元喬(1303-1344)のとき、大覚大僧正によって日蓮宗に改宗されました。このとき元喬とその父元国が大覚大僧正に帰依し、以後日蓮宗は、備前松田氏の庇護を受けて「備前法華」といわれるまでに隆盛を極めたとされます(『岡山県通史』)。

 『松田家の歴史』(松田邦義氏)にも、福輪寺に関わると思われる記録が見られます。
① 初代松田元国(1280-1339)、四代元房(1349-1369/1398?)、五代元方(もとのり 1350-1395)が「奥坂山に葬送」
② 六代元運(もとかず 1369-1416)が「福輪寺(後の妙善寺)に葬」
③ 七代元隆(もとたか 1390-1473)が「妙善寺内に葬送」

 ①の「奥坂山」の場所は、江戸時代津島村の枝として奥坂村がありましたので、その村内あるいはその後ろの山あたりを言っていたのかも知れません。津島小学校の西門に至る道の西側にある奥坂の墓地に古い五輪塔があります。地輪の一辺が53cm、水輪の直径が55cm、高さが2m以上あるりっぱなもので、火輪の笠の一部が欠けているなど相当古い時代のものと推測されます。由来がはっきりしていないのが残念ですが、今も備前松田家のお墓としてお祀りをされているそうです。
 ③は、松田元隆が妙善寺に葬られたとの記録ですが、一方(5-7)では、元隆は福隆寺に葬られたとされています。又福輪寺は、元隆の法号をとって妙善寺と改号されたとあります。*15 以上から、妙善寺への改号の時期としては、元隆が病死した文明5(1473)年頃の可能性が高いのではないかと思われます。
 *15 妙善寺への改号の由来については諸説ありますが、元隆の法号に基づく説を妥当としています。

 妙善寺は、その後蓮昌寺、道林寺、妙国寺とともに日蓮宗備前の四大本寺と称されるまでになりますが、寛文6(1666)年以後、池田光政によって大がかりな寺院整理が行われる中で退転します。光政の寺院整理では、日蓮宗、とくに不受不施派の寺院については徹底した淘汰が実施されたようです。寛文6〜7年に妙善寺及びその末寺で破却された寺院は、御野郡内だけで20か寺に上っています(『備陽記』「御野郡古寺跡之事」)。
 宝永4(1707)年、寛文中に廃寺となった寺院の由来を差し出させた「寛文中諸郡廃寺」(『撮要録』)に以下の記録があります。

「○ 津島村
鷲林山妙善寺 日蓮宗
下寺福居浄円寺
住持寺家下寺共出家盡立退
本堂寺家下寺本尊共御払
惣屋敷畑一町七反七畝十五歩半除地
内 八反十三歩延宝九年発畑年貢地と成
残畝は山林 畑は村作」

 寛文中に妙善寺とその下寺浄円寺は、住職が立ち退いていなくなり、本堂やご本尊も払われ、土地も一部が年貢地となったという経緯が記録されています。
 妙善寺の下寺として挙げられている「福居浄円寺」ですが、永山卯三郎氏によると、これが福居に地名が残る「常円寺」とのことです(『岡山市史 第1』(1936))。
 以上から、福輪寺は14世紀半ば頃(1342年頃)には確かに存在した、又15世紀はじめ(1416年頃)にも存在した、そして、妙善寺に改号された時期は、15世紀後半(1473年頃)で、その後寛文年中に退転した、というところまでは言えそうです。

5-2 福輪寺の所在地
 繰り返しになりますが、上記の記録で福輪寺があったとされる場所は、次のようになっていました。
①(5-2)(5-3)が福井(福居)の上としている。
②(5-4)(5-6)では、市場村としている
③(5-5)では、西坂としている。
④(5-5)(5-6)では、妙善寺は退転するまで奥坂村にあったとしている。

 永山卯三郎氏は、以上の記録を踏まえて、福輪寺の由来を次のようにまとめています。

「福隆寺・福龍寺又福輪寺・福林寺は第一に福居の福隆寺、第二に市場の福輪寺、第三に奥坂の妙善寺、第四に現在の妙善寺と前後、寺地を四転し。第一の福隆寺阯に建てられたる常円寺が一時妙善寺の下寺となり、寛文六年妙善寺と共に廃絶したる也。」(同上)

<妙善寺について>
 寛文年中に退転した妙善寺は、明治13(1880)年に本堂が再建されます。そのとき再建された場所は、現在の所在地に隣接する「市場ちびっこ広場」だったようです。寺碑に「明治新政ト共ニ鄰按ノ舊地ニ復興」とあることから、ここが退転するまで奥坂村にあったとされる妙善寺の寺地(の一部)だったと推測されます。

<市場の福輪寺、西坂の福輪寺について>
 次に第二の「市場の福輪寺」についてですが、(5-4)では市場の東の山裾、(5-6)では市場村にあったとされています。
一方(5-5)では、市場ではなく西坂にあったと記録されています。「往昔津島之内西坂と申所に福輪寺と申寺有之由」ということですので、そのような言い伝えがあったということでしょうか。『角川日本地名大辞典 岡山編』の「小字一覧」で津島村の項を見ると、確かに「福林寺」という小字があります。その位置を土井基司氏作成の「字名図」で確認すると西坂の北で、妙善寺の西に隣接する区域(左図。クリックで拡大)です。江戸時代の地誌が「福林寺」という地名について殆ど言及していないことから、これは江戸時代より古い地名で、江戸時代には一般的には知られていなかった地名かもしれません。『岡山市史 第1巻』(1975)に掲載の「岡山市福居常円寺(福隆寺)跡付近略図」(p.511)には「福林寺」の地名が見えますが、とくに言及はありません。寺名と同じ地名ですので、関連があると思われ、地名の由来等についてさらに調べてみる必要がありそうです*16
 *16 『中国兵乱記』(中島元行 元和元(1615))の永禄7(1564)年のくだりに「福輪寺」の名前を冠した「福輪寺要害」「福輪寺山」「福輪寺の首塚」等の表記が見られる。

<常円寺について>
 さて、第一の「福居の福隆寺」についてですが、上記引用の最後に「第一の福隆寺趾に建てられた常円寺」とあります。永山氏は、この常円寺を手がかりにして、福輪寺の所在地を推測したようです(右図)。簡単な図ですが、現在の津島スポーツ広場の東側の道を登った先が想定されています。寺地の大きさについては、かなり具体的です。

「東西四十間、南北二十間、総面積八百坪。是を上ノ段とし更に下ノ段も竹林と山林とより成る殆ど同じ広さの平地あり、思ふに是一帯の平地こそ旧福隆寺即福輪寺の旧趾ならん」(『岡山市史 第1』(1936))

 上述の「小字一覧」によると、津島村に「常円寺」という小字があります。その位置をやはり土井基司氏作成の「字名図」で確認すると、小字「福居」の上(北)に位置しています。この字名は、永山氏等がここに常円寺があったとする根拠のひとつであったと思われ、又(5-2)、(5-3)の福輪寺が「福井の上に」あったという記録にもつながりますが、これ以上の証はなく、永山氏も「唯々遺物の徴すべきなきを遺憾とす。姑く疑を存して後考に資す。」(同上)とされているところです。

 それから、常円寺趾の東側に示してある墓地ですが、現在の常円寺墓地と思われます。永山氏は、この墓地は「江戸時代以降のものにして豊島石製の藍塔二基あり皆寛永年間【1624-44】のものたり」(同上)とし、図でもわかる通り、常円寺の寺趾には含まれていません。又「字名図」でも、小字「常円寺」ではなく、小字「宮ノ下」にあるようです。
 豊島石は、瀬戸内海の豊島で採掘される凝灰岩で古くから石灯籠などに使われてきました。ここで言及されている藍塔(家形の墓石)二基ですが、今も常円寺墓地内に現存しています。


おわりに

 以上、津島(福居)を東西に通っていたとされる福輪寺縄手とそれに関連して山陽道や福輪寺について紹介しました。これらは江戸時代の郷土地誌では必ず言及されているものですが、岡山大学のキャンパス内を除いて現地調査が行われていないため、町内に史跡や遺物が残っていないのが残念です。
 本文中に、福輪寺縄手と想定されている道筋、すなわち、中川用水筋と座主川筋の現在の写真を掲載しています。現時点で福輪寺縄手とこれらの道筋を結びつける情報は乏しいのですが、中川用水筋については、岡山大学による調査研究の進展が期待されます。
 右の写真は、昭和30年頃の現在の津島スポーツ広場に至る福居の道筋を西から撮影したものです。幅2、3mほどの細い道が続き、右(南)側には耕地が広がっています。白く光っているところは「沼田」でしょうか。今からは想像できない風景ですが、ほんの70年ほど前のものです。
 本文中にもふれた福輪寺の復興に努められた日実上人ですが、備前に下ったその年(1378)の6月7日に遷化されています。お墓は津島にあると伝えられているのですが、未だ確認がされていません。今回の記事をまとめる過程でお話をうかがったなかで、今なお日実上人のお墓を探索されている方がおられることを知りました。今から600年以上前のことですので、見つけるのは容易ではないと思われますが、もし見つかれば、福輪寺の由来を知る大きな手がかりになると考えられます。
 最後になりましたが、図版の提供にご協力をいただきました岡山大学文明動態学研究所の野崎貴博先生に感謝を申し上げます。(令和6年4月15日 大塚茂、早瀬均)


【参考文献】
[1]関係
(1)平家物語. 下. 岩波書店, 1993,(新日本古典文学体系, 45)
(2)長門本平家物語. 勉誠出版, 2005.
(3) 源平盛衰記. 三弥井書店, 2001.
[2, 3]関係
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(5)石丸定良. 備前記. 1700-1704, (備作之史料. 4)
(6) 高木太亮軒. 和気絹. 1709序, (『吉備群書集成, 第1輯, 1970』所収)
(7) 享保17年従公儀御尋有之由ニ付書出,(『撮要録. 日本文教出版, 1965』所収)
(8)和田正尹ほか. 備陽国誌. 1736, (『吉備群書集成, 第1輯, 1970』所収)
(9)大澤惟貞. 吉備温故秘録 巻35, (『吉備群書集成, 第8輯, 1970』所収)
(10) 津島のむかし. 津島学区コミュニティ協議会, 1992.
(11)岡山市史. 巻1. 1936.
(12) “上道郡藤井驛西端ゟ御野郡釣之渡福林寺縄手通り古道見取凡絵図”. 岡山大学池田家文庫絵図公開データベース, https://repo.lib.okayama-u.ac.jp/zoomify/N1-131.html, (参照2024-03-31)
[4]関係
(13)土井基司. 半田山城測量後記. 岡山大学構内遺跡調査研究年報. 1990, 7, p. 40-52.(電子版
(14) 田名網宏. 古代の交通. 吉川弘文館, 1969.
(15) 藤岡謙二郎. 古代日本の交通路 3. 大明堂, 1978.
(16) 足利健亮. 吉備地方における古代山陽道・覚え書き. 交通の歴史地理. 1974, 16, p. 99-128.(電子版
(17) 乗岡実. 岡山市津高確認の直線古道について. 古代交通研究. 1993, 2, p. 48-55.
(18) 中村太一. 備前国における古代山陽道駅路の再検討. 古代交通研究. 1994, 3, p.21-43.
(19) 草原孝典. 備前国西半の古代山陽道のルート変更について. 岡山市埋蔵文化財センター研究紀要. 2017, 9, p. 22-40.
[5]関係
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(21) 石丸定良. 備陽記. 日本文教出版, 1965.
(22) 土肥経平. 備前軍記. 1774, (『吉備群書集成. 第3輯. 1970』所収)
(23) 土肥経平. 寸簸乃塵. 1778, (『吉備群書集成, 第1輯, 1970』所収)
(24) 大覚大僧正:第六百五十遠忌記念. 京都像門本山会, 2013.
(25) 松田邦義. “松田家の歴史”. 簡略版. https://matsudake1188.jp, (参照 2024-03-31)
(26)岡山市史. 第1巻. 1975.
(27)中島元行. 中国兵乱記. 1615, (『吉備群書集成. 第3輯. 1970』所収)

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