福居夜話 第3話 天津神社 その2 〜 社殿・参道・鳥居・石灯籠 〜
社殿・参道・鳥居・石灯籠
福居夜話第3話は、天津神社についての第2回目です。今回は、天津神社のハード面、すなわち社殿等の建物や金石について、やはり記録によりながら、各々の歴史をたどってみたいと思います。
(1)社殿の構成
社殿の構成を示す最も古い記録は、宝暦3年(1753)8月の絵図「御野郡福居天神社境内之図」(『撮要録』)ではないかと思われます。この絵図をみますと、境内の上の方に本殿(御祭神が祀られ、御神体がおさめられているところ)があり、下に拝殿、その間に幣殿(供物をお供えするところ)が描かれています。「拝殿 一間 二間半」と書き込みがあり、拝殿の大きさも示されています。
参道を登りきったところには門らしい建物が見えます。その建物から塀が境内を囲むように設けられていたようです。境内のすぐ北には「御宮林」、又山頂付近には藩の「半田御林」が確認できます。
山下の方では、馬場筋の東側には「此所有来馬場」と書き込みがあり、従来から馬場があったようです。馬場筋、馬場の両脇には、段々畑が広がっていた様子もうかがえます。
社殿に戻りますと、幣殿が長めに描かれていますが、本殿、幣殿、拝殿という構成は、この18世紀半ばから現在まで変わっていないことが確認できます。
(2)宝暦3年の「馬場筋替」〜 参道の付け替え・鳥居の建て替え
実は、この絵図は、同年に福居天神社の氏子から、神社に行く馬場筋(参道)の変更を願い出た際に添えられていたものです。当時の社司 (しゃし。現在では「宮司」)岸本掃部(かもん)から次のような内容の願書が藩に出されていました。
「御野郡福居の天神社は南向で、馬場筋が絵図のとおり曲がっています。参詣の便も悪く、見た目もよろしくないので、このたび氏子から願いがあり、本社前通り南へ直に馬場筋を付け替えたくお願い申し上げます。もっとも、このたび付け替えたいと申し上げている土地は、年貢地で、従来の馬場道は社地であり年貢地ではございません。このたびお願いの馬場畝[田畠]の替わりには、従来の馬場を畑にして、年貢は滞りなく納めるようにいたします。[付け替える部分の]馬場の幅と長さは、もとと同じで[幅]一間に[長さ]十七間、畝は十七歩。(注:[ ]は補記。一間は1.818m、一歩は3.3m2)
一 従来の木の鳥居は、木が腐って壊れているので、石の鳥居をこのたびの馬場に建てさせていただきたい。」
この記録から、神社へ登る馬場筋(参道)は、元は現在のように真っ直ぐな道ではなく、真ん中あたりで曲がっていたのを、今から270年程前、藩に願い出て真っ直ぐな参道に整備し直したことがわかります。新しい馬場筋は、幅1間、長さ27間(49m)になっています。長さは、現在の参道とほぼ同じ位でしょうか。
この願書には、もうひとつ、馬場筋(参道)を真っ直ぐに整備するにあたって、鳥居も新しい石造のものに建て直したいとの願いも出されていました。現在ある鳥居の年記銘は確認できませんが、おそらく、この参道の整備と併せて建立されたものと推測されます。
(3)天保11年(1840)の社殿建て替え
平成26年に本殿を建て替える折、取り壊す旧本殿の中から棟札(むねふだ)が2枚発見されました。それらの棟札には、社殿を建て替えた時期や経緯に関する新たな事実が記録されていました。
① 棟札1(右図)
(表)
天保十一年四月十九日
備前國御野郡津島郷天神社本殿幣殿拝殿新爾仕奉
祠官大賀播磨正治 大工村井冨蔵 願主氏子中
(裏)
大賀播磨忰同廣太郎
この記録から、本殿、幣殿及び拝殿が天保11年(1840)年4月に新しく建て替えられたことがわかりました。これは、社殿の建て替えに関する全く新しい事実でした。
② 棟札2(下図)
「去天保七歳申九月村中 (去る天保七年申九月より村中で)
日壱文相集当子四月迄 (一日一文を今年子の年の四月まで)
居申候処依之御宮御 (集めてまいりましたところ、これにより御宮の)
普請成就仕候以上 (普請が成し遂げられました、以上)
当村名主北方村
喜三次
同村五人組頭 徳左衞門
同村世話人頭 真介
源左衛門
同村判頭 藤八郎
同 瀧右衛門
同 佐四郎
(中略)
天保拾壱歳
子四月十九日」
二つ目の棟札には、天保7年9月から天保11年4月までの凡そ4年間、村中で一日一文を集め、その集めたお金を使って漸く御宮の建て替えを成し遂げることができた旨が記録されています。まさに村をあげての大事業だったことがうかがえます。又、この棟札には、当時の村役人や建て替えにあたった主要人物の名前も記録されていました。
なお、同じときに、御神体が納められていると思われる箱が確認されています。箱の表には次のような記録がありました。筆跡が棟札1と同じですので、棟札と同時期に書かれたものと思われます。「式内」(「式内社」のこと。)と記録されていますが、広く確認された上で書かれたものかどうかはわかりません。
「備前國御野郡津島郷
天神社一座
式内」
このとき(天保11年)に建て替えられた社殿の構成や大きさについてですが、30年後(明治3年)の『神社明細帳』には、次のように記載されています。
「一 本社 壱間四面 幣殿 壱間四面
拝殿 梁行壱間 桁行二間半」
拝殿については、宝暦3年(1753)の絵図にも「一間 二間半」と記録がありましたので、そのときと同じ規模で建て替えられたようです。現在の拝殿と比較すると、一回り小さい規模です。また、拝殿が前と同じ規模であったということは、本殿、幣殿についても同様であった可能性があると思われます。
(4)拝殿の建て替えと本殿の一部改修
現在の拝殿は、1981年10月に建て替えられました。同時に一連の建物として幣殿も建て替えられています。このときの趣意書(昭和56年6月吉日)には、老朽化した拝殿の建て替えについて、数年来諮ってきて漸く実施できることになった旨が記されています。前の建て替えから百年以上が経っていますので、かなり老朽化が進んでいたと考えられます。
明確な記録はないのですが、図面等で確認しますと、拝殿は、梁行で7尺 > 11尺、桁行で15尺 > 19尺と拡張されたことがわかりました。現在の規模です。これにより床面積もほぼ倍増しました。
なお、このときに本殿の回廊部分とそれを支える柱が老朽化していることが判明し、その改修工事が併せて実施されています。
(5)本殿の建て替え
現在の本殿は、平成25年に建て替えられたものです。「経過の記録」によると、建て替えの議論は、平成24年6月頃から始まったようです。その2、3年前から雨漏りがしてきたので、専門家に相談。その結果、改修ではなく建て替えが必要との判断に至り、実施に向けての準備が始まりました。平成25年2月に開催した町内会臨時総会において建て替えが正式に決定され、同年9月に建て替え工事着工、12月27日に引き渡しを受けています。
新殿祭、遷宮、落成式は、平成26年の歳旦祭の日に執り行われました。
本殿は、流造や一間四面など、基本的な様式や規模は、旧本殿を踏襲しています。一方、正面扉や高欄の形の変更、脇障子や装飾の追加等、意匠はかなり変更されており、旧本殿に比べて一層重厚感のある外観になっています。
(6)石灯籠
普段は余り気に止められていないかもしれませんが、参道の入り口にある一対の石灯籠についてもふれておきましょう。
二つの石灯籠は、形や高さが、大体同じなので、一対で建てられたと思われるかも知れませんが、よく見ると、宝珠(ほうじゅ)の形、笠の大きさ、円窓や竿の形に違いが見られます。
年記銘を確認しますと、向かって右は「天保三壬辰九月吉日」、一方、左は「天保十己亥九月吉日」と読めます。天保三年は、西暦1832年ですから、これらの石灯籠が建てられたのは、今から190年程前のことです。しかし二つは同時に建てられたのではなく、設置時期には、7年の隔たりがありました。推測ですが、当時の氏子の人たちが融通し合う資金では、一度に二つの石灯籠を建てることができず、間をおいてひとつずつ整備をしていったということかも知れません。(令和5年9月7日 大塚茂、早瀬均)
【参考文献】
(1) [福井天神社馬場筋替. 寺社雑留宝暦三年] 撮要録(文政8(1825)). 日本文教出版, 1965. p.1182-1183.