操明この人 第5回「光本政子」(江並)

投稿日:2020年6月4日

バドミントンに懸けた青春

昭和13年、海の近く(岡山市、当時は上道郡の三蟠)で生まれ、子どもの頃から旭川で泳いでいたので自然と運動能力が身についていたのか水泳はもとより陸上、テニス、バレーに操南中ではソフトボールのエースとスポーツ万能だった。
昭和28年 山陽女子高に入学、バドミントンを始める。
昭和30年 インターハイ(全国高校総体)で団体初優勝
昭和31年 岡山市役所へ赴任
同 年   兵庫国体一般女子の部で出場し天皇杯男女総合初優勝に貢献
昭和32年 全日本実業団選手権大会で権田(山陽女子同期)とのコンビで県勢初の優勝
上記優勝以外に団体の天皇・皇后両杯を含めてベスト8以上は19回を数えた。
「岡山バドミントン五十年」県バドミントン協会発行より
当時の山陽新聞記事によると、昭和25年に山陽女子高に赴任した毛利清志監督の熱血指導の成果は年を追って現れることになる。光本が入部した当時の練習は厳しく千メートル疾走に素振り,縄跳びを各500回、それに毎日うさぎ跳び、何度泣いたか、30人位一緒に入った部員が3年時には権田と二人だけになっていた。毛利監督によると光本は他の選手より基礎体力が養われていて、粘り、コントロールを身上とし、その上フットワークが良く、足にものをいわせて相手を押しまくり、どんなピンチにもフォームを崩さないのが彼女のプレーの特徴と語っている。
昭和30年代、毛利の率いる山陽女子高のバドミントンは栄華を極めるが、光本はその先陣を切ったメンバーの一人だった。世界チャンピオンに輝いた湯木博江(夫は歌手の新沼謙治)は10年後輩である。
現在は岡山市老人クラブ連合会女性部会の副部会長を務める傍ら、グランドゴルフやカラオケを楽しむ日々を送っている。

(敬称略)          文責  萩原 正彦

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