忠 魂 録(第一章)


 母の像

 強くきびしく
 やさしかった母
 おかげで私がある
 お母さんありがとう
 私たちのかなしみが
 くりかえされることの
      ないように


         
遺児

散る桜 残る桜も 散る桜
   良寛


 あれは、木の葉が舞う晩秋の寒い日の午後だった。
 岡山護国神社の鳥居の外に英霊と向かい合う「母の像」に出会った。
 周囲には人影もなく私はコートの襟を立て像の前に佇んでいた。いつしか胸が込み上げ頬に涙した。
 『今一度訪れよう、そして、「四季折々の母と子の姿」と「忠魂録」をページに残そう』と。
 明治維新以来幾度かの戦役事変に際し、祖国の隆昌を確信し散華された護国の英霊を心から敬仰し其の偉勲を顕彰し、ここにご事歴を留めます。
 あれから63年、戦後の復興と今日の繁栄を驕ることなく、平和への感謝と行く末の平和を祈り謹んで英霊に捧げます。

                                                  平成20年2月

尊王攘夷
 寛永以来幕府は、鎖国政策によって愉安の夢を続けていた。欧米諸国においては、自国力の躍進と相まって常に東洋への伸展を計り、ひそかに融手を伸ばしてきた。
 寛永14年の島原半島の乱によって諸外国に与えた幕威の影響は大きく、オランダを除く諸国の来航を拒み続けてきた。
 それから約150年後の寛政4年にロシアの使節が、わが国の漂流民を伴い根室に来て条約を要求した。
 それから12年後の文化元年に英、米、仏船も浦賀、琉球等に頻繁に出没するようになった。
 特に清国で起きたアヘン戦争以降は欧米の船舶が数を増し極東に来航し給水や貯炭地として琉球や小笠原に寄港していた。
 英国がまず領土の発見占領を宣言し、続いて米国が同様にまた領土発見宣言をした。
 しかし、どこの国にも従属せす幸せにも侵略を免れ、明治維新になっても日本領土として守り続けてきた。
 このことは自然に国民の志気を鼓舞し、尊王攘夷論が盛になっていった。
 「尊王」とは、天皇の古代的権威を復活させ崇拝する思想で、幕府が勅許なしで開国の結んだことなどは尊王派の志士たちを刺激し幕府避難の論拠となった。
 「攘夷」とは、自国と夷狄(外国)を区別する名分論で排外的思想で、幕府がペリーの脅かしに屈して開国の一歩を踏み出したとみる攘夷派から強い不満が噴出し幕政批判につながっていった。
 このため、「尊王論」と「攘夷論」は、幕府に対する批判的な思想として結合し、「尊王攘夷論」として反幕スローガンとなっていった。

 幕府は安政5年4月20日、大英断を持って彦根藩主の井伊直弼を登用し幕府の大老として幕威の再建と諸藩の鎮圧を計った。
 しかし、井伊大老は、徳川家茂を推挙して将軍家の継嗣と定め、続いて勅許を得ないで遂に日米通商条約を締結してしまった。
 この行為は、将軍家をはじめ諸藩主を驚かせ、特に攘夷論者の怒りを買い京洛の地は志士淵叢の状態におちいった。
 幕府は、機を逸さず梅田雲浜等を初めとして四方の志士を逮捕監禁し刑に処したが、遂に水戸藩主徳川斎昭にも及んだ。これが、後世に言う安政の大獄である。
 このような世相で薩摩藩の有馬治左衛門を盟主とする十六士が、万延元年3月3日江戸桜田門外で、井伊大老の登城を襲撃した。
 井伊が暗殺された事により弾圧は収束する。幕閣では一橋派が復活し、文久の改革が行われ、将軍家茂と和宮の婚儀が成立して公武合体路線が進められる。安政の大獄により幕府はモラルの低下や人材の欠如を招き、反幕派による尊攘活動も激化し、滅亡の遠因ともなった。

桜田門

坂下門事件
 井伊大老の後任の座に据えられた安藤対馬守信正は、井伊大老に排撃された幕閣の人物を旧に復して、鋭意内治外交の拾収策に当たった。
 しかし、ロシアとの外交交渉が渋滞し万延元年12月10日通商条約を締結し、辛うじて時局を救解した。
 また、国内問題として公武合体を計画し、将軍家茂のために皇妹和宮の御降嫁を乞い、その実現を見たけれども、その政略結婚は幕府が徒らに国民感情を刺激する結果となり朝廷権力拡張の手段ともなってしまい、幕府の弱体を暴露する以外の何物でもなかった。
 このようなことが原因で安藤対馬守信正も文久2年4月15日坂下門外において、水戸藩主平山兵介ら13人の撃墜を受けて傷つき、大老を罷免された。
 これを契機として、時勢は急転し、一路王政復古の道を歩み始めた。

坂下門

生麦事件
 文久2年8月、江戸から京都に向かう途中であった薩摩藩主島津忠義の父・島津久光の行列が生麦村に差し掛かった折り、前方を横浜在住のイギリス人4人が乗馬のまま横切った。薩摩藩主達はイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るよう説明したがイギリス人は意味が通じず、久光の乗る駕籠の近くまで馬を乗り入れてしまった。
 これに怒った奈良原喜左衛門ら一部藩士が斬りかかり、1名を斬殺し2名に傷を負わせた。
 この事件でイギリスは薩摩藩に関係者の処罰と賠償を要求するが、薩摩藩は拒否し結果として翌年薩英戦争が勃発する。

生麦村

戊辰戦争(ぼしんせんそう)
 慶応4年(明治元年・1868年)1月3日~明治2年(1869年)5月18日、西軍(薩摩、長州・他連合軍)と幕府軍との国内最大規模の内戦で鳥羽・伏見の戦い、上野戦争、北越戦争、会津戦争、函館戦争などの総称で、慶応4年(明治元年・1868年)の干支が戊辰であったので戊辰の役ともいう。

戊辰戦争中の薩摩藩の藩士

江戸薩摩邸焼き討ち・戊辰戦争へ
 慶応3年(1867年)12月25日、幕府と諸藩兵が薩摩藩の挑発行為に報復し薩摩邸を焼き討ちした。
 江戸は、王政復古の大号令(慶応3年12月9日)後、辻斬りや強盗等の治安が乱れていた。益満一派は幕府を挑発して、幕府を薩摩藩に報復させ、倒幕の大義名分を作ろうと画策した。
 幕府は、会津・桑名・庄内藩など四藩の兵を含め約2000名で三田の薩摩藩と支藩である土佐原藩屋敷を焼き討ちにし、多くの藩士を捕らえた。
 この事件が伝わると共に、大阪城内の幕府兵と佐幕派諸藩兵は薩摩藩討幕すべく京都へ進軍した。
 この事件が引き金となり鳥羽・伏見の戦いへ推移していった。

鳥羽・伏見の戦い
 慶応4年(明治元年・1868年)1月3日~5日。戊辰戦争の開戦となった戦いである。
 大政奉還(慶応3年・1867年10月14日)後の小御所会議で決定された徳川慶喜の辞官、領地返納に反発した大阪在城の幕府軍および会津・桑名の藩兵約1万5000名が、二条城から大阪城に移っていた徳川慶喜を擁して薩摩藩討伐のため京都に進軍した。
 これを阻止しようと薩摩藩・長州藩を主力とする西軍4500名とで鳥羽、伏見で戦い幕府軍は敗走した。

鳥羽・伏見の戦いの図

北越戦争
 慶応4年(明治元年・1868年)4月27日~7月31日。越後平野で行われた西軍(北陸鎮撫総督軍)と奥羽越列藩同盟軍との戦い。
 4月27日西軍は小千谷、鯨波を占領し5月2日、長岡藩上席家老・河井継之介は中立を望み北陸鎮撫総督・岩村清一郎と小千谷・慈眼寺で会談するが決裂した。
 同盟軍は要所新潟湾を押えて武器を補給、河井の指揮下に、長岡を中心に攻防戦を展開した。ガトリング砲などの最新火器を駆使して一度落とされた長岡城を奪い返した。
 西軍は戊辰戦争中最大の苦戦を強いられたが7月31日長岡城を再度攻撃して越後を征圧、勝利した。

江戸城を無血開城
 慶応4年(明治元年・1868年)4月11日。前将軍・徳川慶喜追い討ちの西軍に、勝海舟と西郷隆盛の会談(薩摩藩江戸屋敷)の末に徳川家が謝罪条件に江戸城を無欠で明け渡した。
 この日を持って260余年続いた徳川幕府の完全崩壊と同時に武家政治の終わりを告げた。

上野戦争
 慶応4年(明治元年・1868年)5月15日。西軍に反抗し、上野の寛永寺に立て籠もった彰義隊(幕臣で編成)と、西軍との戦い。
 西軍は佐賀藩で製造したアームストロング砲など火力で圧倒し、その日の内に制圧、勝利したことにより西軍は関東を掌握し、徳川家を駿河に移封し7月17日、江戸を東京と改めた。

会津戦争
 慶応4年(明治元年・1868年)8月23日~9月22日。会津藩主・松平容保(京都守護職)に対する追討令が出され、薩摩・長州を主力とする西軍が会津若松を攻めた戦い。
 白虎隊・娘子軍の活躍で名高い会津藩は近隣の30余藩と奥羽越列藩同盟を結びこれに対抗し会津若松城を拠点に激戦を繰り広げた。
 慶応4年(明治元年・1868年)9月22日、会津藩は降伏した。

会津若松城

函館戦争
 慶応4年(明治元年・1868年)10月20日~明治2年(1869年)5月18日。西軍などの幕府に対する処置を不満とし、慶応4年(明治元年・1868年)8月19日、榎本武揚を中心とした幕府軍200名が「開陽丸」を旗艦とする幕府艦隊8艘で江戸を脱出、10月20日に森町に上陸し、10月26日に函館・五稜郭を占拠し函館府知事を追放、松前城・江差を奪取して共和国を建国し西軍に抵抗した戦争。
 西軍はアメリカから幕府が発注していた鋼鉄艦を加えて攻撃し函館周辺で激戦を繰り広げ5月11日に西軍による総攻撃が始まり、函館山裏手から山を越えて奇襲するという作戦で函館周辺を制圧した。
 土方歳三ら多数の戦死者をだし5月17日に榎本武揚は黒田清隆らの降伏勧告を受け入れ降伏した。
 5月18日、五稜郭が明け渡され函館戦争を最後に戊辰戦争は終結した。

五稜郭本陣(明治元年冬撮影)
五稜郭跡

佐賀の乱
 明治7年2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。
 不平士族による初の大規模反乱であったが政府の素早い対応によってあっけなく鎮圧された。
 明治6年10月25日、時の参議江藤新平は征韓論の主張が容れられず、薩摩の西郷隆盛、土佐の板垣退助等と共に連袂辞職し帰国した。
 征韓党と憂国党は国家観や文明観の相違から仲違いしており、江藤は反乱に積極的ではなかったが、両者は政府の強硬姿勢と江藤の帰郷により、共同して反乱を計画する。 佐賀城を奪うが、政府側の内務卿大久保利通が早急な対応をし、嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)を征討総督とした金衛兵や鎮台兵などの政府軍を派遣して劣勢となる。
 福岡との県境の朝日山で戦闘があり、陸軍少将野津鎮雄の兵が佐賀城下に進攻すると江藤は征韓党を解散し、鹿児島県へ逃れて下野中の西郷隆盛に助力を求めるが拒否され、東京を目指して土佐から阿波に逃れる途中、既に手配書が廻っていたために高知県東洋町甲浦で捕縛された。

 江藤は東京での裁判を望んだが、大久保は急遽設置した臨時裁判所において、権大判事河野敏鎌に審議を行わせた。わずか2日間の審議で江藤、島はじめ11名が斬首となり、さらし首とされた。江藤らの裁判は当初から刑が決まった暗黒裁判で、答弁や上訴の機会も十分に与えられなかった。明治政府の司法制度を打ち立てた江藤当人が、昔の部下である河野にこのような裁判の進行をされたことが非常に無念に思ったとの伝がある。その後もしばらくは佐賀では士族らを中心に不穏な動きが続き、明治10年(1877年)の西南戦争のなどに合流する士族もあったが、ついに佐賀自体で二度と反乱が起こることはなかった。なお、反乱後しばらく庶民の間で、江藤の霊を信仰すると諸病が治り眼病が癒り、訴訟ごとがスムーズに決着するとの風聞が流れた。
 後,、大正8年(1919年)、特赦が行われて江藤や島も赦免され、叙任されるとともに、しばらくして地元有志によって佐賀城近くの水ヶ江に佐賀の乱の戦没者の慰霊碑が建てられた。

佐賀の乱・東京日日新聞記事

萩の乱
 明治9年(1876年)山口県萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。
 1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と10月27日に起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠、奥平謙輔ら約100名によって起こされた反乱。
 10月28日萩の明倫館(旧藩校)を拠点として、前原を指導者とする「殉国軍」が挙兵。しかし政府側に察知され、萩で広島鎮台の攻撃を受け、11月6日までに三浦梧楼が率いる政府軍により鎮圧された。前原・奥平ら幹部7名は本隊と別行動をとり東京へ向かうべく船舶に乗船し、萩港を出港したが、悪天候のため宇竜港(現在の出雲市内)に停泊中、11月5日に逮捕された。
 12月3日に萩で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた前原と奥平は即日斬首された。
 なお、松下村塾の塾頭玉木文之進(芳田松陰の叔父)は塾生であった前原らが事件に関与した責任を感じ切腹した。

萩 城

台湾征伐
 現在では世界でもっとも自由な国の一つとして経済的にも文化的にも発展を続けてる台湾であるが、過去には絶え間ない侵略と抗争の歴史を残す。
 明治7年4月4日、日本人が台湾に漂流した際これらの人々の物資を略奪し殺害するなどの挙に出たため遂に出兵征討を行ったもの。
 西郷従道を台湾都督に任じ、3600名を率いて長崎を出帆し台湾瑯橋湾に上陸して征藩を行った。
 このことは、明治政府の確立後外地に軍を送って戦勝した最初であった。
 その後、政府は藩地事務局を新設し、大隅重信を長官に任命し大久保利通を清国に派遣して恭親王等とその処置について交渉を行ったが談判は難航したが駐支英国公使「ウエート」の百方斡旋が功して局を結ぶことができた。

江華島事件(こうかとうじけん)
 明治開国以後も日鮮関係は依然として複雑化していた。
 明治8年(1875年)9月20日に朝鮮の江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。
 日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件とも呼ばれる。日朝修好条規締結の契機となった。
 江戸時代後期に開国し、明治新政府が成立した日本では慶応4年(1868年)12月19日に新政権樹立の通告と国交と通商を求める国書を持つ使者を李氏朝鮮政府に送ったが、国書の中に「皇」「勅」の文字が入っており、冊封体制下では「皇」は中国の皇帝にのみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味していたので、朝鮮側は受け取りを拒否した。その後何度も国書を送ったが、朝鮮側はその都度受け取りを拒否した。
 日本側は、先に清国と対等な条約である日清修好条約を締結する。その後、日本と清国の間で領土問題が発生し、日本の強硬な態度に驚いた清国は朝鮮に国書の受け入れ交渉をするよう指示し、ここで交渉は再開されるはずであったが、明治5年(1872年)5月外務省官吏・相良正樹は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた草橋倭館(対馬藩の朝鮮駐在事務所)を出て、東莱府へ出向き、府使との会見を求めた。この倭館なるものは、建物の建設・日本側の滞在費を朝鮮側が負担し管理していたもので、日本における長崎の出島に当たるものである。
 更に同年9月、それまで対馬藩が管理していた草梁倭館を日本館と改名し外務省に直接管理させる事にした。 この日本側の措置に東莱府使は激怒して、10月には日本公館への食糧等の供給を停止、日本人商人による貿易活動の停止を行った。
 しかし、いずれにしても日本側の感情を逆撫でする効果は十分あったのであり、そのため日本側で有名な「征韓論」を巻き起こす事となった。これは草梁倭館は、朝鮮政府が対馬藩の為に建て使用を認めた施設だった事、対馬藩は日本と朝鮮に両属の立場にあったからである。

西南戦争
 明治10年(1877年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱で西南役、丁丑の乱、十年戦争、私学校戦争とも呼ばれ、明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模のもので日本最後の内戦となった。

概説
 明治10年2月15日~明治10年9月24日
 維新以来のあまたの内乱に比較し得ない最大にして最後のものであったのが西南の役で、それまでの「反乱」とは異なり「戦役」と称したことからも伺える。首将は維新の元勲にして参議の筆頭、軍部の最高権威で近衛都督を兼ねた信望随一の陸軍大将・西郷隆盛であり、これに従う薩摩軍は、島津の代から伝統の武勇に至厳の訓練を重ねた精鋭であり。しかも兵器弾薬や軍需品は相当の供給力があり、明治新政府は総力を挙げて鎮圧に当たった。
 西南戦争の結末は、政治的には最後の封建的武力を制圧して中央集権的近代国家完成の途に躍進させ、軍政的には徴兵制度を確立して国軍建設の礎石を意味した。それは時代の転機を示すもので明治維新はこの戦役を以って終期を迎え、政治的・経済的な近代的発展はここに第一歩を踏み出した。

明治維新と全国の暴動
 慶応3年(1867年)12月9日 新政府は王政復古の大号令を発し、700年の封建制度はここに倒れて日本は近代国家の第一歩を踏み出した。明治維新とは上下一体となって幕藩体制を清算、大改革を実施し西欧に対抗しうる体制を整えたことであるが、大きい動きには大きな反動が伴う。この反動として戊辰戦争が起こり、そののちにも大小の反動的反乱が次々と日本全土に起こった。反乱の理由は様々であるが、結局は近代国家の建設を急ぐ新政府の施策に対する保守反動的暴動であって、大義名分に乏しく組織的なものではなかった。
 まず徴兵令に反対して起こった騒動はほとんど無数といってもよい。徴兵制は一面からみれば武士階級の否定であって、兵役を忌避する農民の心情に彼らの扇動が働いて血税騒動となり、徴兵令自体への反対に加えて反政府的意味を持つものも少なくなかった。多くの場合、発足したばかりの鎮台兵の出動を待たずに鎮圧された。
 廃藩置県に伴う政治体系の変革、身分制度の変革に反対といった封建制度への回帰を望む者、薩長中心の政府に反抗する反薩長騒動など、内容に多少の差はあるが時代の進展に逆行する反政府的騒動も発生した。明治4年9月高松県(香川県)の暴動、10月岡山県下の農民蜂起、飾磨県(兵庫県)の騒乱などはこの大規模なものである。さらに同年12月には度会県(三重県)県民や、高知県郡部の農民なども暴動を起こし、いずれも藩兵に鎮圧された。なおも明治6年には大分県、北条県(岡山県)で其々住民2万余が蜂起、同年6月には旧制に復し士族の禄を復することを口実に福岡県で起こった暴動はその数6万4千に及び、大規模の暴動鎮圧には鎮台兵の力では足りず、旧藩兵の助力を必要とした。

佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱
 これらは、維新の大業に中心的役割を果たした下級武士層が、新時代の建設において不遇をかこい現状に対する強い憤りが鬱積して騒擾に発展した点が共通していた。そして最大級のものが西南戦争であった。

征韓論
 朝鮮との修好をはかろうとした明治政府に対し、鎖国主義を執る朝鮮は日本の要求を拒みつづけた。ここにおいて朝鮮の非礼は許し難い、とする征韓論がみなぎった。朝鮮もまた日本を軽んじ、応戦の構えを示したことで一層事態は紛糾し国論は二分した。この征韓論を唱える急先鋒は、西郷隆盛とその指導下にある薩摩出身者、後藤象二郎、板垣退助、副島種臣、江藤新平らで、名目上の理由は朝鮮の非礼を糾すにあったが、その真意は、旧士族の不満を征韓によって解消するという旧態然とした政治意向があり、さらに一部には士族中心の政府を樹立しようという政権欲があったことも伺える。
 一旦決定しかけた征韓の議は、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らが欧米視察から帰国すると廟議変更を強要、明治4年10月23日には御前会議において非征韓を上奏し御裁可を得た。近代国家完成のためには内治を治め不平等条約の改正こそ最優先で、征韓などは問題に非ずというものであった。
 ここに国策は決定、非征韓論者が政府の実権を握ると征韓論者は一斉に職を辞して野に下った。西郷は10月末に郷里鹿児島へ帰国の途につき、後を追った薩摩出身者は、陸軍少将・桐野利秋、篠原国幹ら約300を数えた。

私学校党の決起
 
西南の役の誘引としては西郷の下野を一因とするが、当時各地にみなぎっていた旧武士の反感や抵抗、鹿児島につくった私学校に対する政府の曲解、ひいてはその威を恐れながら放任黙過した政府の無力さもあった。明治10年1月このような情勢の中で政府は鹿児島にあった兵器、弾薬を大阪に移転しようと考えたが、私学校生徒はその機先を制し、1月末から2月初旬にかけてこれを奪取、占拠してしまった。さらに警視庁警部・中原尚雄らは大久保利通の密命を受けて西郷暗殺を企てているとの流言が広まり、私学校党は2月3日中原一味60余人を一網打尽に捕らえてしまった。このように私学校党の反政府熱が高まって西南の一隅には不穏な空気がただよい始めた。
 2月3日朝 桐野の命により辺見十郎太ら三人は、狩猟と入湯で大隈高山の別荘にいた西郷に事件を知らせた。西郷はその顛末を聞き終わるとしばらく瞑目していたが、やおら眼を開いて 「今更起こったことは致し方あるまい。」と、やおら立ち上がり別荘を後に鹿児島に向かった。

戦闘経過
 明治10年2月15日 13000名の薩摩健児は「政府に尋問の廉これあり」として進撃を開始した。前日から南国薩摩には珍しく大雪が降りしきり、尺余の降雪をけって熊本を経て東上した。全軍は二隊に分かれ、一隊は篠原が率いて西目街道を伊集院から阿久根・水俣と北上、主力は東目街道を加治木から横川、加久藤越を経て人吉に入り八代に向かった。2月下旬 薩軍は相次いで川尻に進出、2月21日の軍議で全軍が熊本城を強襲することになった。一方2月19日には征討の詔が発せられ、有栖川宮を総督とする3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を指揮して征討に当らせた。
 熊本城は加藤清正が築いた天下の名城である。政府軍(官軍)はこれを配するに名将・谷干城をもってこれにあたった。谷のとった決心は約4000の兵力をもって守城するにあった。前年熊本に起こった神風連は、創設間もない新国軍に大きな打撃を与え、その傷跡を回復するのに多大な努力を傾注しつつあった。その状況において、天下の強兵薩摩隼人とこれに呼応する不平士族の多数を考慮すると、城外に出でて決戦を挑むことなど夢にも考えられなかった。加えて兵員の大部分は徴兵によるもので、兵の資質は薩軍と比するまでもなく、専守防御に徹する他はなかった。また西郷に対し親愛の情を持つ谷としては、自ら進んで西郷を討ちたくない、とする心理もあったとされる。

熊本城攻防戦
 明治10年2月21日から4日間にわたり4倍の兵力をもってした熊本城の攻撃はことごとく失敗していた。士族精鋭の薩軍にとって徴兵による官軍などは「土百姓の人形兵」であり、「只一蹴して過ぎるのみで方策を要せず」として、精強を過信するあまりひたすら力攻で臨んだ。しかし、にわかにこれを陥れることはできず、長期戦と化した。篭城は50日を数え、小倉からの援軍・第14聯隊の聯隊長心得・乃木希祐少佐は軍旗を薩摩軍に奪われるという一幕もあった。この間筑紫方面から続々南下してくる官軍に対し、薩軍は高瀬の平原に遭遇戦を展開していた。兵力は其々1万名を数え、官軍は薩軍に両翼を包囲されその司令部も蹴散らされようとしたほどであったが装備、兵站の欠陥、用兵の不手際からこの戦闘にも失敗、薩軍は西郷の末弟、西郷小兵衛を失った。
 それから薩軍は菊地川南方、吉次峠から田原坂を経て山鹿に至る要線に後退の上陣地を占領、史上名高い田原坂の死闘が繰り広げられた。この要線は歴史的には加藤清正によって北方に対する熊本城防衛の第一線とされていたところであった。穏やかな火山噴出台地は段丘崖を形成し、路外にはいたるところに竹林が密生し昼なお暗く、凹道が連なり機動・展望・射撃を著しく妨げていた。3月4日から始まった田原坂の戦闘は20日まで及んだ。この間官軍は、退くを知らない積極果敢な薩軍に対し、徒に正面攻撃の正攻法のみでは勝算の見込みなし、として薩軍背後への上陸作戦を実施していた。3月19日に上陸に成功した官軍は、黒田清隆の指揮によって順調に進撃し、4月15日には熊本城を包囲していた薩軍を破って熊本に入城した。
 よく奮闘した薩軍主力も遂に城東地区に後退を余儀なくされ、南方に連なる要害の地、吉次峠の近傍では副将・篠原国幹が戦死した。最大時には2万余を数えた薩軍もこの頃には8千位に減じていた。
 こののち薩軍は人吉盆地での攻防戦(4月27日から6月21日)を経て都城-佐土原-美々津と日向各地を転戦、8月中旬までには延岡の北方約6KMの長井村に追い詰められる。4ヶ月にもわたる後退作戦の連続で薩軍8千の兵力は半分以下の3千足らずまで減少、一方追撃態勢をとった官軍は、熊本鎮台はじめ第1、第2、第4旅団など総勢約5万人の多きに上った。

延岡の戦闘
 8月5日 開戦半年を経て西郷は全軍に告諭を出して奮起を促した。しかし敗戦を重ねていた薩軍の大勢を変えるには至らず、8月14日には延岡を失い、可愛岳のふもと熊田周辺に後退した。連敗の薩軍は弾薬も食糧も払底しており、士気の低下を憂慮した西郷は自ら陣頭に立って雌雄を決しようと言い出した程であったが、諸将は未だその時機ではない、と諌めて延岡奪回を企図した。
 薩軍は長尾山から無鹿山にかけて拠点を占領、ここで官軍に打撃を与え、頃合を見て一挙に延岡を奪還する作戦であった。8月15日 薩軍は攻勢を開始、官軍もまたこれに応戦して延北の山野は両軍の士で溢れた。戦況は一進一退のうちに、午後になるとさしもの薩軍も態勢は崩れ始め長尾山から熊田に敗退するの止む無きに至った。官軍は三方から北川の渓谷長井村に薩摩軍を追い詰め、袋の鼠となった薩軍は夜にかけて一部で延岡に進撃を図ったが、かえって官軍の反撃を浴びて中には降伏する部隊も現れた。 西郷は「我軍の窮迫此処に至る。この際諸隊にして降らんとする者は降り、死せんとする者は死し」と布告、自らは陸軍大将の制服をはじめ重要書類を焼却、負傷した長男菊次郎には従者を付けて降伏するように指示した。このいわば「解散令」によって、熊本隊の600人を筆頭に九州各地から馳せ参じた諸隊は相次いで官軍に降伏、一部は西郷に決別を告げて自刃した。

城山の落日
 
官軍主力は9月6日頃鹿児島に集結、薩軍を城山に包囲した。鹿児島の城は郷ごとに一つの城を設け、これらの城はすべて山に拠ったので城山と称していた。官軍は西郷以下一兵たりとも逃すまいと城山を十重二十重に包囲した。薩軍はこの防御に有利な城山に堡塁20余箇所を構え、守備を固めた。其々平均20人、総計500名と役夫が200名であった。官軍は包囲網の中で各旅団から選抜の1500名が攻撃するという方法を採った。西郷とは縁戚にあたる攻城砲隊司令官・大山巌少将は全砲兵を挙げてこの突撃を支援することになった。攻撃開始は9月24日とされた。
 薩軍は、官軍の重囲に精彩を欠き、弾薬糧食ともに欠乏し始め、500を数えた兵員も城外に散るものが多く、総勢372名に減じ、そのうち銃を持つものは150名内外に過ぎなかった。西郷始め将兵は敵弾を避けるため洞窟を本営にしていた。その頃諸将の一部には西郷の死を惜しみ、助命のため降伏の議が持ち上がった。だが軍使を派遣するも時既に遅く、寛容な処置を期待することはできなかった。9月23日 西郷は諸将を集め決別の宴を開いた。月は煌々と沖天にかかり今生の名残を惜しむに相応しい夜であった。
 9月24日 払暁とともに号砲が鳴り響き、官軍諸隊は一斉に攻撃前進をはじめ、ここに城山総攻撃の火蓋がきって落とされた。まず小倉荘九郎は大勢既に迫り来るを見て自刃してたおれ、桂四郎はじめ多くの諸将も銃弾に倒れた。西郷は着物に兵児帯をしめ裾をはしより草履姿で洞窟を出ると、飛来した弾丸により負傷した後、遥か東天を伏し拝み別府晋介の介錯によって自刃した。時に桜島の山頂を朝日が染めた7時過ぎ、隆盛51歳であった。西郷の死を見届けた桐野、村田、別府、池上、辺見らの諸将も後を追い枕を並べて討ち死にした。

新時代の幕開け
 こうして九州の山野に戦うこと7ヶ月、明治10年9月24日 薩摩軍は城山において全滅した。
 西郷が自刃する4ヶ月前の5月26日 木戸孝允が西郷の行く末を案じながら京都で病死した。そして翌明治11年5月14日 大久保利通は宮中に赴く途中、刺客に襲われて死亡した。木戸45歳、西郷51歳、大久保49歳であった。
 「維新の三傑」と呼ばれた木戸、西郷、大久保は、三人三様の性格ながら手を握って国家統一を実現させ、明治新政府樹立の中心にたってきた功労者である、その突然の死は、必然的に最高指導者の交代を現し、新しい時代の幕開けを意味した。

官軍の将校

参考文献
 菊地明(他)編, 『戊辰戦争全史』〈上・下〉, 新人物往来社
 陸奥宗光 中塚明 校注 『蹇蹇録』日清戦争外交秘録 新訂ワイド版岩波文庫255 岩波書店
 デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー(著)、妹尾作太男・三谷庸雄(共訳)『日露戦争全史』、時事通信社
 斎藤聖二, 『日独青島戦争』, ゆまに書房
 『太平洋戦争の謎 魔性の歴史=日米対決の真相に迫る』佐治芳彦 大日本帝国文芸社
 斎藤充功『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか 』新潮新書 新潮社
 『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』佐藤卓己 筑摩書房

ページ引用
 ウィキペディア・フリー百科事典
 近代日本戦争史概説

文責
 的場 宣明
 昭和12年2月生

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