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尾佐無(おさむ)神社

県道岡山〜牛窓線越しに撮った神社全景(すぐ裏手に旧道の山道がある)

所在
岡山市湊452番地
(県道 岡山〜牛窓線 東山峠の頂上東、北斜面)
旧社格
村社
現地位
宗教法人 尾佐無神社
(代表役員:高原章兆=石高神社宮司、責任役員:池の内町内会の三名)
別称
井戸神様
祭神
八衢比古神(ヤチマタヒコノカミ)、八衢比賣神(ヤチマタヒメノカミ)、久那斗神(クナドノカミ)
祭日
5月15日(上道郡史)、10月10日(岡山県神社誌)
境内敷
63坪(上道郡史)、67.7m2 ≒ 20.5坪(国土調査成果)
所有権
土地(境内敷)の所有権=宗教法人 尾佐無神社
由緒

富山学区内に現存する神社庁管轄下にある(旧社格)村社の一つです。(他には、石高神社、吉備津岡辛木神社があります)

御祭神たちは、イザナギノカミの禊(みそぎ)のときに生まれた神として日本書紀に登場し、道路にまつわる諸々の災害を防ぎ止める交通安全の神様で、この地は昔から交通の要所であったことから祀られているものと思われます。

尾佐無神社は、備前藩の文書「撮要録」の記述によれば、延享4年(1747年=江戸時代)の記事として「湊村峠叢祠」の項に、『上道郡湊村内の峠の茶屋より東下り坂の道筋の林の東辺に、以前から清水が湧き出る場所があるが、このところ一年以上もその脇に花を立て、絵馬を置いて“水神”と唱え、誰だかわからぬが小さな祠(ほこら)を据え置いてある。このままにしておいてよいものかどうかと、村役から伺いが出された』とあります。

翌年の寛延元年には、『その祠の中には「尾佐無大明神」との書付があり、人々が参詣している』『御林(池田家の領地たる山林)の中の往来筋に設置された祠や井戸ではあるが、存続したい』との覚書が、円山八幡宮(現、石高神社)の高原祠官と湊円山名主大庄屋の連名で出されたとの記載もあります。

(いずれも文意に忠実に意訳したものです)

また、「岡山県神社誌」(昭和56年発行)には、『崇拝者数150人』『延享5年=寛延元年、藩主池田氏の存続許可を得て社殿を造営した』『境内に清泉あり。古来より眼病および水の神として崇められ、明治10年5月、村社に列格した』と記されています。

現状

山を切り開き、現在の県道岡山〜牛窓線の東山峠が開通した昭和8年ごろからは県道からスッとお参りできるようになりました。(それまでの主参道は、裏の旧道直下(今も、関係位置は同じ)の林のなかにありました。)

今では訪れる人もなく、前述のように「叢祠」(草むらのなかにあるほこら)然とした佇まいで、鳥居石材の継ぎ目がずれて鋼材で補強され、拝殿の屋根には穴があいて朽ちた木材が覗いているなど荒廃が進んでいました。

〜 老朽箇所寸描 〜

鉄材で補強された鳥居瓦がとれ、朽ちた拝殿の屋根

このところ何十年も祭礼など行われたことがなく、正月だけには地元町内会によって拝殿に注連飾り(しめかざり)が奉納されています。

「目にええ」と、たくさんの人がお参りしたという清泉の井戸もいまでは埋もれ、雨水が溜まっていました。

参道脇(鳥居のある石垣のすぐ下)にある枯れた清泉(井戸)

協力
岡山県神社庁、岡山県総務学事課、石高神社宮司 高原章兆氏、湊池の内町内会長・石高神社湊池の内地区氏子総代 西山金弥氏、岡山市立中央図書館、岡山地方法務局登記課

(文:小野田、写真:馬場)

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