5.賞田廃寺                                    案内トップへ戻る

賞田廃寺後の写真 賞田廃寺関係リンク

賞田廃寺の瓦経
史跡 賞田廃寺跡
備前賞田廃寺
日本の塔跡


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「賞田廃寺跡から大量の瓦を発掘」


賞田廃寺跡で石造りの階段発掘

場 所 岡山市賞田

行き方 宇野バス四御神行「脇田」下車北より 古田樋尻川・中田川分岐7つ石北

説 明 
賞田廃寺は、備前の国最古の寺院跡と言われており、当時吉備の国を支配していた豪族吉備かみつみちし上道氏の氏寺とみられている。場所は、唐人塚のすぐ東の緩やかな傾斜をもつ谷間に所在する。
 廃寺跡は一時宅地造成でこわされそうになっていたが、各方面の努力で国指定の史跡として保存されている。
 賞田廃寺の周辺の山麓には、唐人塚をはじめ多くの後期古墳(6〜7世紀頃)が築造されており、また、南側には、備前国府(7〜8世紀)が所在したと想定されており、高島地区は、豊かな備前平野の中心として繁栄していたものと窺わせられる。
 賞田廃寺跡は、昭和45年(1970)に、史跡指定に向けて発掘調査が行われ、更に、平成14年(2002)に史跡公園として整備するため第2次発掘調査が行われ、金堂、東西二つの塔、南側及び西側の回廊、築地の基礎地形、瓦窯等の遺構が検出され、飛鳥時代(7世紀中頃)・白鳳時代(7世紀項半)から奈良時代(8世紀)にかけての各時代の瓦や地方寺院では珍しい奈良三彩と呼ばれる土器の破片等が出土し、吉備かみつみちし上道氏の繁栄振りと中央政権の大和朝廷との繋がりの強さが窺わせられるところである。
 寺院の構造は、当初の調査では、塔・講堂・回廊・築地等を含め1町(110m)四方の寺域と考えられていたが、第2次の調査の結果、東西二つ塔の所在が確認されるなど、更に大きな寺域であったのではと考えられている。塔は、奈良の都や宮殿などに見られる壇上基壇と呼ばれる手法で造築されており、伽藍の配置は川原寺方式(下図参照)か薬師寺方式(下図参照)と推定されていたが、今回の調査で塔の所在が二つ確認されたことで、薬師寺方式に近い方式と考えられているが、なお未確定である。しかし、いずれにしても大和地方の寺院に比べて遜色のない立派なものであったことが推定されると共に吉備上道氏(かみつみちし) を頂点として備前の国の豊さと当高島地区がその中心であつたことが立証されるところである。
 この寺院の歴史は、飛鳥時代末から白鳳時代の初期にかけて創建され、奈良時代末期に盛期があり、鎌倉時代(12〜14世紀)に廃絶したものとみられている。
 なお、高島地区周辺には、幡多廃寺(赤田地区)・居都廃寺(古都地区)と賞田廃寺と同様な寺院が創建され、その遺跡の瓦等の出土品からこれら3寺が一体的に経営されていたと考えられ、当地区の支配者、吉備上道氏(かみつみちし)の強大な権力と中央政権との強い繋がりが窺わせられところである。

伽藍の配置方式図


















参考資料: (株)山川出版社刊「山川日本史総合図録」

(中 島  貝原孝雄)
(住吉町  清水信之)

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