中井川と川市
(岡山市立高島公民館発行『高島の風土記第二部なごむ水風景』より抜粋)

中井の地名の由来
中井川にまつわる話
中井川と川市
中井の史跡
 中井は川市銀座 [戻る]
 川市は中井地区で右岸側に11、左岸側に15カ所ある。このうち屋根つき川市は、右岸側に5カ所、惣川市は右岸側に1カ所、石段状川市は右岸側で6カ所、左岸側はすべてこの型である。現在はなくなったが、かつて使用されていたものが、惣川市2、屋根つき川市2、計4カ所あった。なお、惣川市は農耕用に飼育していた牛馬を川の中に入れて、時々洗ってやるのに欠くことができない場所であった。
 出屋敷の出屋敷川沿いに屋根つき川市が2カ所、石ないしコンクリート製の川市が6カ所ある。かつて屋根つき川市であった所が3カ所確認できる。なお、出屋敷の人々は、川市とどのような関わりをもっていたのであろうか。聴き取りの結果をまとめてみると次のようになる。
「生活用水として利用するため、雨が降っても心配ないように屋根囲いをして、屋敷の一部として利用していた。朝の洗顔、食器洗い、洗濯物のすすぎ、風呂水等日常生活全般にわたって使用する重要な場であった。汚れた水は川下の人のことを考えて流さないように配慮し、洗濯物の大きな汚れなどは井戸場で落としてからすすぎをしていた。風呂水にも流水の方が井戸水より太陽熱で温められているので燃料の節約になるし、使った風呂水(汚水)は溜めておいて、畑の作物のしめりとして利用していた。」
 中井川の用水路の構造は、BとDのタイプが大部分で、一部西岸を10mほどホタルのためにEのタイプにしている所もある。支線の用水路はほぼコンクリート化されて魚貝類の生息条件は無視されている。

用水路の構造(断面図)と素材

<水車小屋が3か所あった>

 中井上・中井下・出屋敷にそれぞれ1基ずつ水車があった。電気などの動力源がなかった時代には、米を搗くのに用水の水を動力源として、村中で共同管理・利用していた。中井下の水車はかなり大きく、昭和10年頃まで可動していた。

<大森晃さんの中井川と溝の思い出>
 中井地区では、自宅の生活排水などは自分の畑や水田に排水し、中井川には一滴も排出していなかった。昭和15年(1940年)頃、中井川の水を自宅の川市から風呂にバケツ12杯汲まされるのが日課であった。また、手ですくって飲んでいた。当時はプールがなかったので、地神洞の樋尻の深くなった所で子供は泳いでいた。
 中井川には、ナマズ・ウナギ・ドンコツ・メダカ・ドジョウ・カニ・シジミ・コイ・アユなど多くの川魚がいた。この中井川が逆流したことがある。それは昭和9年9月21日の室戸台風の時、二本松の百間川の堤防が決壊した時である。中井公会堂付近の道が、約5p浸かり道がわからなくなったことがある。
 幅4尺2寸クラスの溝は、非灌漑期、水がなくなると底の泥を掘り起こしていくとドジョウがたくさん捕れた。30mくらい掘れば、高さ1尺の甕が一杯になった。朝の味噌汁の味は格別だった。9月頃、大雨が降った時、溝の橋に網を仕掛けておくと、ウナギが5〜6本も捕れた。家に持ってかえり移しかえていたら1匹飛び出して逃げた。こともあろうに庭の角のネズミの穴に入り込んだ。これは未だに出てこない。おしいことをしたことを今も覚えている。その他にフナもたくさん捕れた。バケツ2杯くらい。これは串に刺し炭火で焼いてホデに突き刺して保存し、鶏を飼っていたので餌にした。これらの魚は何れも水田に農薬が使われだしてから急速にいなくなった。

<エピソード>
  1. 昭和10年頃、協同(現在の農協)でスイカを買い持って帰るのに困った時、スイカを中井川に流し中井で拾い上げていた人もいました。
  2. 「中井の橋立てり」という言葉が中井以外の人のあいだで使われていました。中井は用水に沿って家が多く建っているので、必ず橋が架かっています。この付近で何か珍しい事があれば皆、橋の上に立って見るから、このような言葉が使われたのだと思います。中井の人は案外知っていません。
  3. 中井の人は、中井川と共に生活しています。一生のうち誰でも最低2回は川に落ちます。最初は子供の時、三輪車と共に、次が老人になって足が悪くなり踏ん張りがきかなくなって川市から落ちる。しかし、今まで落ちて大怪我をしたことは聞いていない。
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