中井川にまつわる話
(岡山市立高島公民館発行『高島の風土記第二部なごむ水風景』より抜粋)

中井の地名の由来
中井川にまつわる話
中井川と川市
中井の史跡



記念碑
地神洞の樋
宮田の樋
 逆流する箇所もある中井川 [戻る]
 中井川は、中田川が賞田小字円蔵地・国府市場小字円蔵地で東南に流れる円蔵寺川と分流する分岐点から南流する用水路で、山陽線を越えて高島駅の南までをいう。この先は清水川と名称をかえて流れていく。中井川は、中井の小字荒井田にある記念碑の所から荒井集落の南の問(約70m)は、逆流(南から北に流れる)している。このカラクリは、中井の小字樋口西・柿ノ木にある「地神洞の樋」がポイントになっているようである。この樋は毎日午後2時に堰き止められると(午前6時に開放)、中井川の水量が少なくなり、荒井の南を東流する用水路から水が北に流れてきて、古田中溝川に流れていく。
 中井川はヌクイ川と荒井集落の南で合流し、合流点から記念碑(小字川淵)までは南から北に水が流れ、小字川淵から古田中溝川となって東南流する。通常は荒井集落から南の中井川は水が流れないが、灌漑期(7月から9月末まで)には古田中溝川の宮田の樋を閉め、中井川の水位を上げて清水地区に水を流す。10月から翌年6月までは宮田の樋は開放している。
 なお、地神洞の樋の上げ下ろし当番は、中井の農家の者が順番に従って2日続けて一巡し、2巡目は1日だけである。期間は7月1日から9月末までである。

<エピソード> 
 地神洞の樋は現在開閉式になっているが、かつては板6枚くらいをはめ込む分木式であった。板を上げる時には鳶口を使うのであるが、板には相当な水圧がかかっているので大変な作業であった。特に一番下の板を上げる時は、水圧に負けて板を流してしまい、慌てて下流へ拾いに行った。地神洞の樋尻は深く広いので夏、子供達の格好のプールになった。

 高島地区を流れる中井川には、中井の小字樋口西・柿ノ木に「地神洞の樋」が設置されており、これによって水位を上げ、一つは国府市場の小字シビライチの取水口から分水し、シビライチ、二本木などの水田を灌漑し、二つは中井の小字樋口東・柿ノ木の取水口から分水し、南三反田で東流するもの(これを出屋敷川という)と南流するものに分かれる。これらは中井川より東部一帯の水田を灌漑しており、三つは中井の小字柿ノ木の取水口から分水し、中井川の東岸の道路に沿って流れ(昭和40年<1965年>頃バスを通すため蓋をして現在は暗渠)、集落の背後の水田を灌漑している。この用水路は通称・溝と呼んでい
中井川に架かる筧
高島地区では唯一残る筧になってしまった
る。

<文化財として残しておきたい筧>
 中井川に架かる筧は、中井公会堂西の用水路(通称、溝という)から西に渡る筧が現在でも利用されている。ここの筧は、昭和10年(1935年)頃までは木製であったので大人4人が担ぎ灌漑期の時だけ中井川に架けていた。非灌漑期は公会堂の東側にしまっていた。昭和10年頃コンクリート製のものができるが、長年使っているうちに老朽化が進み昭和50年(1975年)頃、現在のU字溝のものになった。
 JA高島前から東の高島小学校の北に渡る用水路は、かつて筧であった。現在は円筒の管(橋の下にある)で用水を渡している。中井公会堂西の用水路(溝)の末端から古田中溝川に架かる筧があった。この筧で渡った用水は、小字荒井田の水田に利用されていたが、水田が住宅地になったため現在では閉鎖されている。したがって、高島地区で筧が残っているのは中井のものだけである。

 蘇らそう!きれいな中井川
 もともと中井は農村地帯でしたが、市街地に近く、近年では宅地化に弾みがかかり大きな変貌を遂げております。中井町内を南北に流れる中井川の上流である祗園用水には、国の天然記念物に指定されたアユモドキが生息しています。雄町の名水と水源は同じと考えられます。
 昨今の生活廃水などの増加に伴い、水質の著しい汚染と劣化が目立ち、本来の中井川の見る影もありません。目下、進行中の下水道の一刻も早い完備が待たれるところです。そしてかつてのきれいな中井川を蘇らせたいものです。
 [戻る]