< 第 23 回 >  岡山市河本地区の風土記(2)     平成18年12月1日
 記  :  田里 伊佐雄


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 1. 名主 善左衛門の伝説


河本地区の概略図
昨年6月1日付けで掲載した〈第5回〉「岡山市玉柏 河本地区の風土記」に河本地区の概略の地図を示しました。再度その地図を掲載します。




諏訪宮
写真1 諏訪宮の門辺りの風景を
公民館側から

義民碑
写真2 義民碑
この地図に示した諏訪宮の境内には幾つかの石碑があります。その一つにまつわる事柄を紹介させてもらいます。

諏訪宮の鳥居をくぐり,参道を少し進むと写真1の風景の所に到達します。門の手前には,狛犬,石灯籠が左右にあります。近くに大きな木があり,季節や天候によって雰囲気は変わります。
写真1の右の石灯籠の更に右奥の方に木立が見えますが,その辺りに写真2の石碑があります。

石碑の上の文字は横書きで右から左に「義民碑」と書かれています。下の方の文字は読みにくいですが,太陽の光が当たると読み易くなります。縦書きです。なんとか読めた文字は右から「享保十六年八月十四日」,「名主 善左エ門」,「萬延二年酉二月五日」で,続いて八名の個人名があり,最後に「大正十一年三月河本中建之」です。


この名主様の事は日頃長老の方から聞いておりましたが,河本町内出身で,大阪在住の大森康弘様が「名主 善左衛門」の事を調べて文章にしてくださったものを読む機会があり,昔の事を何も知らないという思いをしましました。

多くのお方様にもお読み頂ければと思い,大森様の許可を得て「名主 善左衛門 の伝説(レポート)」を掲載することにしました。







 2.大森 康弘氏 の「名主 善左衛門の伝説(レポート)」

今から遡ること、約300年前、享保年間に起きた直訴にまつわる事件について

享保年間(徳川吉宗将軍の頃)、現在の岡山県岡山市玉柏一帯(平瀬・河本・宮本)地区、草刈場の占有権について、騒動が起きました。
江戸時代中期になってくると、農業もいろいろと進歩してきました。それに伴い経済活動も活発になってきた頃のことです。当時、牛馬は農耕に欠かせない存在でした。この3村においても、土地を持つ農民の家には、必ずといって良いほど、牛小屋が設けられておりました。
特に、効率的に、農業の規模を大きくしていく上でも、牛馬の存在は欠かせないものでした。この地域はこの牛馬耕をうまく使い農業とその経済力を発展させてきた典型的な村でした。
このあたりのことは、河本地区に現存する諏訪宮の社の彫り物の芸術性の高さや、中に存在する池田公より17世紀後半に贈られたという鷹の絵が現存することなどからも、この地が江戸時代のころから、比較的経済的に余裕があった地域であったことが伺えられますだから、この地域の人たちは特に牛馬を大切に扱ってきました。

このことは、今は昔からの建物が現存していませんが、宗谷山頂上付近にある神社(惣谷宮)があることからも推し測れます。この神社は、当時から牛馬庇護の神として知られ、この地域でも特別に敬われていました。これらのことからでも分かるように、この地域には牛馬を養うことが非常に盛んな地域だったのです。

しかし、農業と地域経済の発展に伴い、飼料を確保する草刈場の争いが絶えなくなってきました。特に宮本と河本の村同士の対立は日に日に増すようになり、お互いが旭川が流れ込む牟佐北部の裾野から現在の上興院へ至る尾根あたりまでの草刈場で、毎日のように争いが起こりました。
このことについて、村民から日々相談や苦情を持ちかけられる河本の名主、善左衛門は河本村で会合を開きました。このときの河本村での話し合いでは、「宮本村と占有地を画すため、宮本村と会合を持とう。」ということになりました。

そして、河本村代表の名主善左衛門と宮本村の名主が話し合いを持ちました。しかし、いざ話し合いとなっても、お互い一歩も譲らず、なかなか折が合いません。結局、話し合いは頓挫してしまいました。 

そこで、この地域の総代の畑鮎の大名主(大庄屋ともいわれる。)であり、岡山藩郷士御下役(格式は二千石)であった守井氏に仲裁に入ってもらうことになりました。
この畑鮎の大名主は、実は宮本の名主と親戚関係でしたので、当然、この仲裁は宮本村に有利に働きました。
そして、結果としてこの争いでの裁決は河本側の善左衛門にとっては、非常に不利なものでした。河本村の名主善左衛門はこの裁決に対し、異議を唱えましたが、まったく聞き入れてもらえません。結局、このときの河本村にとって不利な線引きがお役所に届けられ、施行されることとなりました。

この一連の裁決について、幾度となく河本村では、会合が開かれましたが、良い案が浮かびません。名主善左衛門は責任を感じる日々が続きました。
一方、牛草が手に入らず、牛を死なせるくらいならと飼っている牛を手放す農民が出るようになりました。村民の怒りは絶頂に達し、とうとう、河本村全体で強訴を企てようとします。

しかし、そこで、名主善左衛門は河本村の農民に、「今一歩待つように。」と諭しました。そして、このときは誰にも言いませんでしたが、「責任者である自分が、直訴する。」という腹を固めました。

その年の岡山藩藩主である池田公が参勤交代で、備前(岡山)の城へ帰還の途中に、名主善左衛門は、その大名行列に向かって、直訴します。
(現在、大名行列というと、土下座をして待つものというイメージがありますが、これは昭和時代のマスコミ、映画が作りだしたイメージであり、実際はここまで厳しくはありませんでした。土下座などは、将軍家の場合に限ったことであり、また、女性の場合はしなくても良い場合もあったり、通常の街道においては、だらだらと歩く列が続くというある意味いい加減な雰囲気だったそうです。つまり、「下に〜、下に」と、あらたまって行列を作ることは一種のデモンストレーションであって、宿場町を通るときには、威厳を保つために行われますが、警備等はあまり仰々しくはなかった節があります。このため、お殿様の籠が来てから、直接、籠のそばまで行くというのは、比較的たやすくできる状況でした。おそらく、善左衛門はこのような時を狙っていったものと考えられます。)
ここで、名主善左衛門は、なんとか、お殿様の近習に取り押さえられつつも、直訴状を渡すことに成功しました。

この直訴のおかげで、河本村と宮本村との草刈場をめぐる一件については、もう一度、再吟味がなされ、河本村と宮本村は公平にそれぞれの占有地が取り決められることとなりました。

しかし、一方で、取り押さえられた善左衛門については、沙汰が下るまで、自宅謹慎を命じられます。そして、ほどなく直訴を行ったことに対する裁決が下りました。もちろん、直訴に対する罪は非常に厳しく、裁決は「磔(はりつけ)」というものでした。

この刑のために、彼が岡山城下へ引っ立てられるとき、この一連の事情をよく知る捕吏(役人)が、旭川の細い道(「かんすのつる」 ← 現在の三野公園入り口付近)で、「ここで、あなたは逃げなさい。この川を泳ぎきれば、もう捕まることはなく、逃げ切ることができるだろうから。」といわれたのを、「もし、ここで私が逃げることがあれば、貴方様にご迷惑をかけることとなります。また、仮に私が逃げおおせても、私の次に村の責任者であるものが、かならず私の罪をかぶることになるでしょう。であるからして、逃げるようなことは致しません。
けれども、もし、お慈悲を賜るのであれば、ここで、私に自害させてください。」
と、せっかくの捕吏の気遣いを断りました。そして、この「かんすのつる」と呼ばれる所にて、名主善左衛門は切腹しました。享保十六年(西暦1731年)14日のことでした。
(また、これは私、筆者の推測ですが、彼の家族も皆、その後、当時の法令慣習に則って、捕らえられ処刑されたものと考えられます。)

ここで名主善左衛門の直系一族は絶えます。
かわりに河本村は名主善左衛門の姻戚関係にある一族が引き継ぎました。
また、彼の住んでいた屋敷は、その後、名主善左衛門の遠縁に当たるものが住み込み、この平成の世まで残っていました。しかし、残念なことに、数年前に老朽化のため取り壊され、
平成16年の現在は、その屋敷のあった藏の礎石が残るのみです。


現在、諏訪宮には、名主善左衛門の功績をたたえる石碑が残っております。立てられたのは、大正年間のことであり、彼の直訴から、実に200年近く経ってからのことでした。

お墓はというと、善左衛門は、最後に罪人として扱われたため、正式にはお墓が残っておりません。言い伝えの中の一説では、宗谷山のふもとの柿畑にある小さく並ぶ二つの丸い石が、彼とその家族のお墓と伝えられております。
また、笠井山に当時の取り決めがなされた境を決めた境石が現在も残っているとのことです。

なお、ほかにも名主善左衛門の伝説が残っています。現在、笠井山に薬師堂があります。この薬師堂の前に白い石があります。
この石は、昔、「かんすのつる」のあたりにあったとのことですが、ある日、ふとその石の前を通りかかった人が、「もし、もし。」と、声を掛けられました。しかし、後ろをみるとだれもいません。気のせいかと、歩き出そうとすると、また、「もし、もし、・・。」と、声がするではありませんか。その人は気になってよく見ると、どうもその声は白い石から聞こえてきます。
「そこの方、わしは、ここで村のもののために直訴をして、腹を切った者である。そして死んでから後、この石に魂が宿ったのだ。今日は、久しぶりに私の前を人が通ったので、つい声を掛けてしまった。」 その人は、はじめは恐ろしかったのですが、後に改めて、その魂のご供養に、笠井山の薬師堂に祭ることにしたそうです。

     (「名主善左衛門の伝説(レポート)」の文責 大森康弘)


 3.補 足

@「かんすのつる」の由来・・・笠井山の力持ちで有名な七郎左衛門が、大阪城築城で功を立て、これに感心した豊臣秀吉が彼に片山の姓と「金のかんす(お茶をたてる金でできたやかん)」を褒美としてやりました。
これ以降、代々、祝い事のあるときにこのかんすでお茶を振舞ったという伝説があります。しかも、このお茶を飲みにわざわざ遠くからきた人も多かったとか。
一方、旭川と、現在の三野公園の境が昔は細い道でした。そこで、当時の人は、この細い道が「かんすのつる(やかんの持ち手)」に似ているということで、この名前をつけたようです。

なお、気になるこの「かんす」ですが、明治ごろまではあったとの話ですが、その後、行方不明になってしまったそうです。

A「備陽紀」という古典にもっと詳しいことが載っているのではないかと思われます。現在、岡山大学にあるとの情報がありますが、私個人で確認ができていません。

B善左衛門の切腹に至るまでの伝説は、河本町内在住であった二人のお方(お二人とも故人)から聞き取ったものです。

C白い石の伝説は、笠井山の薬師堂近くにご在住のお方に伺いました。


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