旭川の清流は大原地区の住民に大きな恩恵を与えてきました。豊かな伏流水は畑の潅水に利用され、あちこちの畑に掘り井戸がありました。
冬は温かく夏冷たい井戸水は昭和45年に牟佐浄水場が整備されるまで飲料水として利用されていました。
一方で旭川は洪水という災いをたびたびもたらしました。
大原地区でも洪水は毎年のように発生し、それも2回3回と見舞われることがありました。
近年の洪水の中で大きな被害が出たものに昭和47年7月の豪雨によるものがあります。
県下の死者・不明者13人、戦後最大規模と報じられたこの洪水は、大原地区においても濁流が地蔵川を逆流し農地の広い範囲を覆い、住宅も床上・床下浸水を多数出しました。
この洪水の原因は県北地域に予想を超える大量の降雨があったことですがそれとともに、ダムの、治水よりも利水を優先した異常放流が原因の、人災ではないかと問題になりました。
しかし大原地区にはもう一つ別な大きな問題がありました。それはこの地域が中原とともに遊水地としての役割を担わされていたことです。
遊水地とは、出水のさい岡山市街地を水害から守るため大量の水を一時これらの地区に導くねらいで、江戸時代初期、熊沢蕃山が構想したもの(山陽新聞記事より)といわれ、もともと堤防は一部分設けられなかったのです。
これより前、昭和9年9月には岡山市街地までも濁流が流れ込む大洪水がありましたが、その後に作られた「旭川改修工事概要」にはおおよそ次のように記されています。
計画流量は毎秒5,000立方米とし…御津郡牧石村大原、玉柏、中原の三箇所に調節地を設け、最大洪水位において700立方米を調節し、残余4,300立方米の内1,000立方米を百間川に放流し3,300立方米を旭川に流下させる…。
大原地区において地蔵川流出部分の旭川締め切り堤防と地蔵川樋門の設置工事が着手されたのは漸く昭和59年になってのことです。それは市街地の河川改修や百間川の用地買収と改修工事の進展を待たなければならなかったためでした。
さらに牟佐地区と大原地区の湛水被害を防除するための排水機設置が平成7年度に着工され12年度に完了しました。
これらのことは、大原地区の住民にとって、長い年月苦しんできた水害の不安から解放される画期的な出来事でした。
しかし今なお集中豪雨時には、地蔵川の増水により低地の浸水があります。
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