<第4回>   「岡山市玉柏 大原地区 の 風土記」     平成17年5月1日
 記  :  小山  修
  
 1.地 形

大原地区は旭川本流と、その本流から分かれて牟佐地区及び四ノ御神地区(龍ノ口山)を分け再び旭川に合流する地蔵川に囲まれた地域で、ほぼ三角形の地形をなしています。

玉柏の中でも唯一旭川によって隔てられ、地形的には牟佐地区との結びつきが強く感じられます。

地区内には住宅のほか岡山県警察学校や各種工場も数社ありますが、地区面積の大部分は畑地で、農業振興地域の農用区域に指定されています。このため開発行為は厳しく規制され、住宅や人口の増加は期待できません。
平成16年度の戸数は174戸です。

大原地区とその周辺
大原地区とその周辺
(撮影 瀬戸内航空写真)


 2.大原橋


大原地区を玉柏のほかの地区(宮本・河本・平瀬)と結んでいるのが大原
橋です。

現在の大原橋は昭和16年に竣工したもので、昭和612月に新大原橋が完成、開通するまでは県道岡山美作線として幹線道路の役割を果していました。

橋の幅員5,5メートル、長さは432,580メートルあります。70メートルの鉄骨つくりが1連と39,2メートルの鉄筋コンクリートつくり9連によって特徴ある美しいアーチ型の姿を見せています。
昭和46年には幅員1,75メートル
の歩道橋が増設され、歩行者が安全に通行できるようになりした。

この大原橋が完成する前には、木製の橋が架けられていましたが、大水のために流失しました。
現在も渇水期には現大原橋の30メートルほど下流に、流失
した橋の基礎部分が流れの中に頭を出しています。






現在の大原橋
現在の大原橋
昭和4年頃の大原橋
昭和4年頃の大原橋

 .旭川の恵みと災い
昭和47年7月の集中豪雨時の大原地区
昭和47年7月の集中豪雨時の大原地区
−山陽新聞より−




















昭和59年頃の状況
昭和59年頃の状況






完成した堤防・樋門と排水機場
完成した堤防・樋門と排水機場


旭川の清流は大原地区の住民に大きな恩恵を与えてきました。豊かな伏流水
は畑の潅水に利用され、あちこちの畑に掘り井戸がありました。

冬は温かく夏冷たい井戸水は昭和45年に牟佐浄水場が整備されるまで飲料水として利用されていました。

一方で旭川は洪水という災いをたびたびもたらしました。
大原地区でも洪水は毎年のように発生し、それも23回と見舞われるこ
とがありました。

近年の洪水の中で大きな被害が出たものに昭和477月の豪雨によるものがあります。

県下の死者・不明者13人、戦後最大規模と報じられたこの洪水は、大原地区においても濁流が地蔵川を逆流し農地の広い範囲を覆い、住宅も床上・床下浸水を多数出しました。

この洪水の原因は県北地域に予想を超える大量の降雨があったことですがそれとともに、ダムの、治水よりも利水を優先した異常放流が原因の、人災ではないかと問題になりました。

しかし大原地区にはもう一つ別な大きな問題がありました。それはこの地域が中原とともに遊水地としての役割を担わされていたことです。

遊水地とは、出水のさい岡山市街地を水害から守るため大量の水を一時これらの地区に導くねらいで、江戸時代初期、熊沢蕃山が構想したもの(山陽新聞記事より)といわれ、もともと堤防は一部分設けられなかったのです。

これより前、昭和99月には岡山市街地までも濁流が流れ込む大洪水がありましたが、その後に作られた「旭川改修工事概要」にはおおよそ次のように記されています。

計画流量は毎秒5,000立方米とし…御津郡牧石村大原、玉柏、中原の三箇所に調節地を設け、最大洪水位において700立方米を調節し、残余4,300方米の内1,000立方米を百間川に放流し3,300立方米を旭川に流下させる…。

大原地区において地蔵川流出部分の旭川締め切り堤防と地蔵川樋門の設置工事が着手されたのは漸く昭和59年になってのことです。それは市街地の河川改修や百間川の用地買収と改修工事の進展を待たなければならなかったためでした。

さらに牟佐地区と大原地区の湛水被害を防除するための排水機設置が平成7年度に着工され12年度に完了しました。

これらのことは、大原地区の住民にとって、長い年月苦しんできた水害の不安から解放される画期的な出来事でした。
しかし今なお集中豪雨時には、
地蔵川の増水により低地の浸水があります。


 .大原土地改良区 

大原地区に農地を所有するもの全員の同意により昭和 508月に大原土地改良区が設立され、畑地帯総合土地改良事業が実施されました。

組合員数73人、受益面積 29 ヘクタールです。

道路の拡幅、側溝と排水路の新設、畑作かんがい施設の整備などが関係官庁や地区住民の協力の下に進められ昭和533月に完成しました。

昭和40年代に農地の交換分合など農業経営の合理化が図られましたが、それを受けてのこの事業による施設整備は、単に農業経営の利便だけではなく地域住民の生活環境の改善にも意味を持つ、この地区としては大きな事業となりました。

畑地帯改良事業記念碑と揚水機場
畑地帯改良事業記念碑と揚水機場

 5.大原地区の農産物

ビニールのトンネル・ハウスによる栽培風景
ビニールのトンネル・ハウスによる栽培風景
大根・人参・黄ニラが栽培されています


黄ニラの風景 1
黄ニラの風景 1


黄ニラの風景 2
黄ニラの風景 2


大原は優れた野菜の産地として名が知られています。

その理由は旭川の豊か
な流れによって作リ出された土地にあります。柔らかい砂質土は、大抵の野菜の栽培が可能です。
特に牛蒡・大根・人参などの根菜類の栽培に適していて、
大根・人参は現在も春秋の2回作付けされています。

特によく知られている農産物は黄ニラです。全国の黄ニラ出荷量の7割が岡山県産だそうですが、そのうちの多くが大原地区で大原や牟佐の栽培農家により生産されています。

このため毎年12月から1月にかけて新聞社やテレビ局が
取材に入り、旬の食材として紹介しています。

昭和50年代まではニラ窯と呼ばれる穴の中にニラ株を並べ、切りワラなどを醗酵させた熱を利用して栽培していました。
黄ニラは11月から3月初めまでの
冬の作物でした。

今では遮光の黒ビニールとその上に設けるビニールハウスや寒冷紗などの利用によりほぼ周年の栽培が行われ、東京、大阪方面に出荷されています。

 6.大野原神社 

大原地区は河本・宮本・平瀬に比べて集落としての成り立ちはかなり遅かったのではないかと思われます。旧蹟といわれるものはほとんどありません。

それは大きな河川の中州的な大原の地勢にも関わるものと思われます。唯一歴史を感じさせるものが大野原神社です。

神社の拝殿に2枚の絵図が掲げてあります。
1枚は明治初期に描かれたといわれる大原地区と大野原神社の絵図(模写)です。
もう1枚は大原地区だけでなく河本・宮本・平瀬さらに中原地区までも含む絵図で、嘉永38月の文字が読まれます。徳川時代の末期、1850年です。

両絵図とも、旭川の水は現在の地蔵川にかなり大量に流れていたことをうかがわせます。

また境内に大きなイチョウとクスノキがあります。クスノキは目通周囲3.6ートル、樹齢150年で、岡山市の保存樹に指定されています。

9月の敬老の日には秋祭りが行われ、子供のダンジリが町内を回ります。

7月の第三土曜日には水神祭りが行われ、子ども会の夜店も出て花火の打ち上げや踊りが繰り広げられます。

大野原神社 大野原神社絵図
大野原神社 大野原神社絵図
大野原神社 秋祭りの風景
大野原神社 秋祭りの風景

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