操明懐かしの写真館(第5回)

投稿日:2021年3月14日

海の玄関三蟠港

旭川河口部東岸(江並)に江戸時代末期から岡山の海の玄関として繁栄した三蟠港があった。明治3年には蒸気船が発着するようになった。同4年にはフランスの軍艦が入港し住民を驚かせた。その頃は県下唯一の蒸気船の発着港として、神戸や大阪、広島、下関への航路が開かれ活況を呈していた。同18年明治天皇が上陸され、同22年には岡山水上警察本署が設置された。同36年高松港への連絡点として脚光を浴び玉藻丸、児島丸が就航。港町として最も栄えたのはこの期間だった。港は旅行者で大賑わいで、お客を乗せて時には100台以上の人力車が三蟠土手を往来する姿は壮観だったという。旅館も二、三軒あり、小さな水族館のようなものもあった。明治43年に宇野線が開通し、連絡船の拠点は宇野港に変わり、次第に人の往き来はすくなくなった。なんとか港の賑わいを取り戻そうと、大正4年に三蟠軽便鉄道が開通。貨物・旅客輸送を行う起点として港に活気がよみがえった。又、市街地へは三蟠・京橋間の巡航船が人気を呼んだこともあり、昭和初期まで港の利用客は多かった。
春には桜の名所高島への花見客、旭川河口では毎年5月と6月に六高と岡山医大の対抗ボートレースがあり賑やかな応援合戦、夏には児島湾で海上花火大会が行われ軽便鉄道に乗って市内から大勢の見物客がやって来て海岸は浴衣姿で一杯になった。
昭和10年ごろは四国や小豆島へ渡るお遍路さんが三蟠港を利用していたが戦時色の深まりとともに寂びれていった。戦後は対岸の飽浦と三蟠間の渡船が主の港になっていった。児島半島から市内の職場、高校へ通勤・通学する人たちにとって貴重な交通手段であったが、昭和58年に児島湾大橋が開通しその役割を終えることになった。
幕末以降長きにわたり繁栄した三蟠港であったが、現在は昔日の面影はなく、石碑や記念碑がその歴史を伝えている。

明治16年刊行の「山陽吉備之魁(さきがけ)」には備前国三番港の文字と蒸気船や旅館、松並木を行く人力車等、港の様子が活き活きと画かれている。沖合には30~50隻の船が停泊し、帆柱は林の如くであったという。

山長旅館には大勢の人の出入りや人力車・荷車が、二階にはお客、右手に郵便局や街灯など、当時の賑わいがよく画かれている。

明治15年倉敷の船会社の公告には、倉敷より三番港に蒸気船を運航させていることが書かれている。

大正期の三蟠港沖(現在の新岡山港付近)に停泊する帆船で後方は岡山随一の桜の名所だった高島、当時はまだ蒸気船は少なく帆船が主力だった。青い海に白帆が映える光景は一幅の絵を見るようである。

参考  三蟠村誌

文責  萩原正彦

 

 

 

 

 

 

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