操明懐かしの写真館(第4回)

投稿日:2021年2月19日

思い出の三蟠競馬

岡山競馬の歴史は最初、昭和2~6年に西大寺向州(むこうす)にあったがコースが規格に合わなくなり原尾島に移設し昭8~27年まで運営されていた。施設の老朽化により新たな場所を求めることになった。旭川下流三蟠港近くの湿地帯を中電三蟠発電所がアス(石炭ガラ)捨て場にしていたが、岡山県と市が取得し馬場として整備し、昭和28年9月15日に第一回三蟠競馬が開かれた。当時は終戦から数年たち生活も落ち着きを見せてきた頃で前年3月31日に上道郡三蟠村から岡山市に編入され各家庭に水道が敷かれるなど暮らしは少しづつ進歩していた。しかしテレビはまだ普及しておらず娯楽といってもラジオぐらいだったので競馬場が出来たことはこの地方にとっては大きな出来事だった。
開催中は岡山から無料送迎バスも出ていて当初は賑わっていた。予想屋や写真判定の審判・カメラマンなどの関係者が近隣の民家に宿泊していた。道路には車もあまり通ってなかったので調教中の馬を見かけることもよくあった。競馬場の警備を村の消防団が担当し、売店や食堂は三蟠農協の婦人部などが任されていた。馬券売り場や事務、清掃などに地区民も採用されていた。出走や着順・配当金を告げる放送や音楽などが遠くまで聞こえていて地元の人達も結構馬券を買いに行っていた。
学校から帰ると競馬場に行き柵に乗ってレースを見たり、イカ焼きやうどんを食べたりした。60年経った今でもイカ焼きの香ばしい匂いがすると競馬場を思い出す。贔屓の騎手に巻きずしを差し入れたり馬をなでたりする人もいて競馬が身近に感じられた。
なお、当時の新聞によると三蟠競馬最高の大穴は昭31.3.14の第9レース千六百の障害レースで、本命・対抗ともに障害を飛べず失格となり、連勝式売り上げ千八百枚のうち、ただ一枚が的中し十三万四千三百二十円の配当が出たという。
ここでは集客のためにいろんなことをしていた。昭27年10月10日に旧岡山藩主池田家第16代当主の隆政氏に嫁いで来られた昭和天皇の第4皇女厚子さんが池田厚子杯の授与の為に来られたり、岡山県津山出身(美作高校出)で東映時代劇のお姫様女優として人気があった千原しのぶのサイン会や、京都から舞妓さんを呼んでいたこともあった。
また、女子プロレスやオートバイレースもあった。
しかし、テレビの普及や娯楽の多様化等時代の流れか、次第に競馬人気が落ちていったこともあり、昭和33年6年足らずの期間で閉鎖されることになった。騎手や馬の多くは福山競馬へ移って行き、以後岡山で競馬が開かれることはなかった。
短い期間ではあったが岡山市街地から離れた田舎ではめったに間近で見ることもない貴重な体験が出来たことは懐かしい思い出である。
跡地には昭和37年藤井製作所のちのセイレイ工業,現ヤンマー農機と内山工業岡山第2工場が進出した。
今では、かって競馬場があった名残はないがレースのスタート地点(西手)近くに馬塚と馬頭観世音菩薩の石碑が建っている。

競馬場の上方に煙を上げる発電所、旭川には石炭船が並んでいる。当時はまだ人家は少なく右手に櫛の様に見えるのは堀田新岡山港はまだ無く海岸線には四ツ手網漁の小屋が並んでいた。昭和32年12月撮影

馬券売り場の前には大勢の客で賑わう


休みの日ともなるとスタンド席も観客で一杯になった

 

 

現在の光景(馬塚前から東方を望む) 手前側が内山工業、向こう側にヤンマー農機

                                文責  萩原正彦

 

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