操明懐かしの写真館(第2回)
投稿日:2021年1月29日
第2回 地域の誇り三蟠火力発電所(その1)
昭和の初頭商工業の集まる県南の電力需要に応える為に中国合同電気(現中電の前身)は新たな発電所を建設する必要に迫られていました。立地候補として琴浦、福島,三蟠が上がりましたが、村をあげて誘致に乗り出した三蟠に決まりました。
用地買収が終わり昭和9年工事に着手、同10年完成し11年2月に営業運転開始となりました。
中国合同電気が社運をかけて建設したプラントは使用機器すべてが国産で規模、能力は当時としては東洋一といわれ日本の技術を世界に誇るものであった。
発電所の誘致は三蟠村にとって多大な恩恵がありました。とりわけ次の3点が特筆すべきものといえます。
①発電所からの税収は当時の村の財政を大いに潤した。②多数の住民が従業員として雇用された。
③当時村には水道はなく飲用水は高島の井戸水か京橋からの水船に頼っていたが、操山の水源地から引かれた発電所用の水道管から分岐して村内7ヶ所に共同栓を設け、初めて水道水を飲めるようになったこと。
発電所はその後、昭和14年から国家管理体制となり日本発送電(株)に編入、村では通称「ニッパツ」と呼ばれていた。
昭和26年5月に現在の地域別9分割の電力体制となり中国電力(株)に引き継がれた。
その間、戦時下にあっては徴用される職員も多く、女子の採用により何とか現場を運転していた時もあった。戦後は一時期賠償指定工場となるなど苦難の時代を経て、昭和30年代には従業員250人を超え最盛期を迎えることになる。戦後の復興に伴い電力需要は大きく増え規模の増設により対応、煙突も当初の2本から3本、4本へと増設していった。周辺には従業員家族用の社宅や独身寮も新たに建設されていった。
島根県にあった松江発電所の閉鎖により転勤してきた社員も多く、そのままこの地に定住した人もいて、安木節、銭太鼓の上手な人がいたり、出雲なまりを耳にすることもあった。操南小学校ではクラスに何人かは中電社宅の子がいて、仲良くなった頃に父親の転勤や退職のため転校で別れを惜しむこともあった。一方で転校してくる子も多く知らない土地のことや方言を聞いた懐かしい思い出がある。
いろんな形で中電とこの地域は深い結びつきがあった。
昭和9年11月 本館基礎杭打ちいよいよ工事の始まり
第一期工事完成 昭和11年2月営業運転を開始 出力規模は25,000KW2基で煙突2本 東から撮影
昭和14年3月には3号機が増設(25,000KW)される。煙突3本 南西側から見る
昭和28年6月には増設工事(25,000KW)により煙突は4本となる。北東側から見る。
北西側上空から見る周辺に従業員用の社宅が増える。工場右手には陸揚げされた石炭の山・昭和32年
九州地方の炭鉱から運ばれてきた石炭の荷揚げ 後始末する作業員
揚炭機(クレーン)で石炭を陸揚げする光景
対岸のクラレ岡山側から見る。圧倒的な威容を誇る。次回(その2)に続く。
参考 「三蟠発電所 50年のあゆみ」昭和59年3月 中国電力株式会社
文責 萩原正彦
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