操明懐かしの写真館(第1回)

投稿日:2021年1月13日

第1回 田園からの出発

コロナの収束はいつになるでしょうか。我慢の日常が続きます。
本年の新企画として古き時代の写真を見ながら在りし日の操明を振り返ってみたいと思います。ご承知のようにこの地方は江戸時代に池田藩による新田開発によって誕生しました。
今から329年前に干拓工事が始まり、各地から入植してきた人たちの長い間の大変な苦労によって美田が出来上がり、幾多の時代の変遷を経て現在の姿へとなってきました。
そこで第一回目はかっての田園風景に関する写真を見てみましょう。
なお、このシリーズでは次回以降三蟠発電所、競馬場、風景、出来事などを随時掲載していく予定です。写真、関連資料、情報などありましたらお知らせ頂ければありがたいです。

1910年(明治43年)6月18日 今から111年前の江並中用水の共同苗代(のぼり旗)
組合員36軒が共同で苗代を作り岡山県の一等賞になったと写真の裏に書かれています。
旭川土手あたりから東を撮影したもので、遠く百間川の松並木が見える。手前の橋の下は祇園用水で当時の人々の服装や家屋などがよくわかる。西大寺朝日館撮影とあり、当時の県知事や村長も写っている。この時代に田園を写した写真は珍しく、当時の様子を知る上で貴重な写真。

 

同じ苗代を南から北に撮影したもので左手に旭川土手の松並木が見える。同年(明治43年)に宇野港が開港し旭川下流にあった三蟠港が岡山の海の玄関としての役割を終える頃で、当時はまだ土手をたくさんの人力車が走っていたようです、土手下近くを数年後(大正4年~昭和6年)に三蟠軽便鉄道が走ることになる。右手遠くに操山を望む。

 

広大な沖新田では、児島湾堤防近くの最下流地域は排水が困難なため湿地帯になる。そのため堀田(ほりた)を作り、堀の土を上げて田として稲作をしていた。昭和30年代に旭東干拓といわれる大工事(児島湾や百間川の土砂をサンドポンプで入れる)によって解消され、今では堀田は見られないが写真は低湿地特有の水田景観。

 

川堀り 毎年春になると長鋤簾(じょれん)を使って農家総出で川底の泥上げや泥よけ作業をしていた。用水の流れをよくすることが主な目的ですが川船を通し易くする上でも意味があった。大きな用水では一日掛かりの重労働だった。

 

田植え 雨が降ってもできる農作業で、これは蓑を着ての田植え風景。機械化によって、今は見ることもなくなったが、当時は早朝6時過ぎから苗代での苗取り、結束して苗配り、そして田植え作業は日の暮れる8時ごろまで、腰の痛いのを我慢して働いた。。子どもも貴重な戦力で学校は農繫休暇になりよく手伝った。 家族総出で親戚からも応援に来てくれることもあった。昭和40年代まで見かけた光景で、上方に三蟠競馬場が見える。

 

この地方で水を踏むという言い方で昭和30年代まで見られた水車での水踏み風景。水踏みは川の水を田に入れる作業で、真夏の日照りの中での水踏みは大変で、広い田では何時間も踏み続けていた。

 

稲刈りが終わった秋の田園風景。子どもの遊び場となり野球や凧あげをしていたが、家によっては二毛作で麦を作ったりイ草を植えていた。三蟠発電所や遠くにクラレ岡山工場の煙突が見える。

 

刈り入れの終わった稲は、脱穀後は集めて円形や長方形の藁(わら)ぐろにして保存していた。どこの農家にも見られ、大半は紙の原料として売っていたが、他に縄(なわ)や俵(たわら),薦(こも)や筵(むしろ)などの農業用品の材料にしたり、風呂焚きの燃料としても使われていた。。

 

文責  萩原 正彦

 

 

 

 

 

 

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