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幡多廃寺跡
赤田には、創設が7世紀末と推定される幡多廃寺跡があります。
寺跡は岡山市東岡山連絡所のある高屋から北へ約七百メートル、赤田百三十番地の田んぼの一隅に野道(九郎稲荷の参道)に添って一辺約七メートルばかりの正方形に近い塔跡を残し、その中央に岡山県下第一といわれる巨大な塔の心礎が露出している。
心礎は原位置を動いていない模様で、この塔
跡のある田地を塔元(とうのもと)と呼び、その南の田を塔の前(堂の前)と称しているので、寺が規則正しく南面していたことがわかる。また塔元の東の田が塔ノ東、北が黒元、その北に続いた田を大名地と呼ぶ。黒元は庫裡ノ元が転じたのであろうといわれている。塔元の西が久保田、その西にシモク田、コンガラ地、コンガラ畑など、仏教に関連した名前が残されている。塔跡から北へ約五十メートルばかりのところに稲荷社がある。一辺約十五メートルばかりの方形の屋敷で、寺の鎮守であったものか、堂の跡と思われるが、明瞭な遺跡は塔跡だけなので伽藍全体の配置がつかめないため、四天王寺式からみてここが金堂跡とも決めがたい。この寺が秦氏の氏寺だったとの説もあるが、心礎や出土瓦が奈良時代後期を示しているため、氏族の氏寺と決めてしまうことも出来がたいが、この平地に、五重塔、金堂、講堂、僧房その他を揃え、おそらく二百二十メートル四方の寺域をもった伽藍のあったことは事実で、存続期間も相当長かったものと想像される。
(幡多学区連合町内会「幡多二千年の歩み」からの引用)
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