下巻

米倉と特産品
綿栽培> 関連資料
 井原木綿、児島機業など岡山には江戸時代の半ば以降から栄えた機業地帯がたくさんあった、その原料は新しい土地から取れた綿で、当時独特の栽培を行っていた岡山南部一帯の綿作りは近畿地方に次ぐ生産力を誇り品質も優れていた、この綿を背景に倉敷、玉島、笠岡、西大寺などの瀬戸内海沿岸の町では綿商人が活躍した。
 人々はそれまで麻で作った着物を着ていた、元禄(1688年)のころから木綿を着るようになり、丈夫で暖かく衣料革命であった。
 綿は元禄、享保年間に山陰地方から岡山県南地方に伝わったように言われている。
 当然、綿の需要は多く綿の相場も良かったが本田畑(1600年以前に出来た田畑)では作付けが禁止されていた。
 日本綿作要説によると綿の栽培は「砂真土相交わりたるところ若しくは砂地よく」と書かれている通り綿は少々塩分はあっても砂地で排水が良い干拓地で育つことから新田一面に植付けられた。
 新田は見渡す限り潮風に揺れる真っ白い綿畑、絵になる風景であったであろう。
 17世紀の中頃、高梁川の目の荒い土砂で埋もれ干拓された玉島付近の新田から取れる綿は玉島木綿と言われ全国に名声をはせた。
 次第に生産量が増え延宝、宝暦年間の最盛期には耕地面積の三割以上に成った、一般の人たちは絹を着る事を禁止されていたので綿は重宝がられた。
 この綿をさばくために自然と玉島、倉敷のあたりに綿屋、西綿屋、東綿屋の屋号を持つ問屋が次々と現れた、また綿商売を目指して付近の村々から人々が町へ集まった、新興町人、大原、大橋らは最初綿の仲買として綿作農民の中に浸透して行った。
 この問屋に集まった綿は大阪、大江戸あるいは児島機業地帯に送られて行った。これで作られた織物は再び問屋に送られ売り捌かれ、問屋は原料と製品で利益を上げて行った。
 江戸時代から明治の30年頃まで我が国有数の綿の産地となり、夏の終わり頃干拓地一帯は一面真っ白な綿の花盛の風景であった。
 5月上旬に種をまき、7から8月に花を咲かせ、9月から10月にコットン・ホールをつける。昭和20年代後半に厳しい食糧事情の中で数件の農家が綿の栽培を行い、秋風になびく綿畑の風情は明媚であった。

写真は倉敷紡績記念館中庭に咲く綿の花

<備前の長藺草>
 新田に咲いた綿が衣料革命なら、イ草は住まいへの貢献を果たした。
 19世紀中頃にはゴザ等イ製品は限られた人のみ使われ、一般の人々はわらで作ったムシロに寝起きしていた。
 イ草は古く中国の揚子江あたりから伝わり自生したと伝えられている。商品経済に登場したのは元禄から享保年間である、綿は高梁川河口の目の荒い土質に適し、イ草は反対に児島湾周辺の新田地帯が絶好の栽培地帯であった。
 享保年間以前から有名であった「備後表」は広島県沼隅郡を中心に作られていた、当時福山藩はお国の特産品として幕府に贈り諸藩の大名たちの需要にこたえ備後表を盛んに作らせ尾道港から送り出した。
 そのうち一般庶民も畳表が使われだし備前、備中から原料を仕入れ加工して備後表の名前で売り出した。
 備前、備中のイ草は備前の「長イ」と呼ばれ品質が良く加工しやすく出来上がりも良かった、その後、地元でも製造技術をおぼえ加工を始めた、中でも新田地帯を背景にした早島付近が製造の中心となり寛政4年ころには問屋を決め備前藩公認の株仲間五軒が舟で大阪当たりと取引きをしていた。
 弘化年間大阪を経由しないで直接江戸との取引きが許され吉屋万之助が江戸日本橋の問屋近江屋と取引きをした、この舟は早島の港を出て潮入り川をつたって児島湾に入り児島の下村、四国の坂出の港で塩を下荷に積み込み上に畳表を積んで海路江戸に向かった、江戸でも早島表の名が有名に成っていった。畳の真ん中が継いである、有名な中継ぎ表は早島表の代表である。
 12月、薄氷を割りながら一株ごと丁寧に植付けるイ苗、初夏、緑のジュウタンを敷き詰めたように青々と広がるイ田、夜明け前から炎天下の中で行われるイ草の刈取り、そしてあちらこちらの農家から聞こえる織機の響き、昭和の40年代の始め頃まで米倉地区の農家はイ草を栽培し、夜遅くまで中継表の機を織っていた。今では都市化が進みイ草の栽培農家も無く、刈り取り風景を見ることも無くなってしまった。
 江戸時代から明治の時代にかけて栄えた新田の特産、綿とイ草は黄金の稲穂に変り、そして新田にも今、都市化の波が押し寄せている。
<昭和30年代・最盛期の米倉地区イ草栽培
(1)苗割り
   「ゆなえかき」とも言い、植付け用に苗を小さく割り、小分けにする。
(2)植付け
   
真冬、田の薄氷を割りながら、一株づつ苗を植付ける。
(3)
刈取り
  
「ゆかり」とも言い、梅雨明けとともに炎天下の中、夜明前からの刈取作業で重労働である。
   最盛期には四国・山陰地方から「ゆかり人夫」と呼ばれる季節労働者が多く雇われていた。
(4)泥染め
   刈取ったイ草を染土を溶かした水に浸す、イ草特有の色を長持ちさせる大切な作業である。
(5)天日干し
  
泥染したイ草を天日に干す。天日干しは天候との戦いである、夕立にでも会えばイ草の商品価値は半減してしまう。
(6)イそぐり
  
乾燥したイ草を選別する作業で、夏休みの子供たちも手伝った。 


 

<備前長イの伝承>
 水島工業地帯が本格稼動を始めた昭和39年に最初のイ草の先枯れ被害が現れ、40年代も半ばには作付け農家は急激に減少した。
 今では、山田地区、栗坂地区で数件の農家が作業の機械化を図りながら備前長イの栽培を伝承している。



近代への道
<学区の沿革>
 明治22年、富田村・新保村・西市村・泉田村・万倍村・米倉村と当新田が合併し芳田村として発足した。
 村名の由来は、当地区の開墾に力を入れた池田光政の贈名、芳烈公から頭字の「芳」に開墾された「田」をつけて「芳田」とした。
 明治29年4月、備前国御野郡芳田村、7大字を区域とする4年制の芳田小学校誕生。全児童数165名。
 明治34年4月に高等科が併設。
 昭和9年に幼稚園が併設。
 昭和16年に芳田国民学校と改称。
 昭和22年4月に御津郡芳田小学校と改称。
 昭和27年4月に岡山市編入に伴い、岡山市立芳田小学校と改称。
 昭和22年4月1日、御津郡大野・今・芳田・白石、四ケ村組合立、御南中学校設立。
  校名の由来は、御津郡南部中学校の略である。
  生徒数1年生(今村小学校校舎)132名、2年生(辰巳公会堂校舎)53名、3年生(今村公会堂校舎)32名。全生徒数217名。
 昭和23年5月30日、田中地崎に御南中学校新校舎落成。
 昭和27年4月1日、岡山市に編入。
 昭和43年3月、芳田小学校の新新校舎が落成し移転。児童数1年生191名、2年生165名、3年生170名、4年生153名、5年生131名、6年生99名、全児童数911名。
 昭和57年4月1日、岡山市芳田小学校から分離新設された岡山市で81番目の小学校、校名は母体校である芳田小学校の「芳」明日への希望を託す「明」の2字を組み合わせて「芳明」とし芳明小学校誕生。児童数1年生125名、2年生127名、3年生117名、4年生147名、5年生121名、6年生116名、全児童数753名。
 昭和59年4月1日、岡山市御御南中学校から分離新設された芳田中学校誕生。生徒数1年生258名、2年生233名、3年生254名、全生徒数745名。

明治創立当初の小学校校舎 芳田尋常小学校校舎
芳田小学校新校舎 芳明小学校新校舎

<上水道>
 上水道は昭和2年3月6日起工式が行われ、昭和3年2月16日に完成し4月22日に通水式が行われた。工事総工費は58680円と記されています。
 それまでは用水路の水、雨水、若しくは井戸水を使用していました、しかし干拓地の地下水は塩分も多く水質は悪かったと想像されます。
 大正12年には原因不明の疫病が蔓延し、大正13年には大干ばつで水田の用水はもちろん飲料水も事欠き、井戸を掘ったりして急場を凌いだとされています。
 安井謙三さんの庭先には、当時を物語る共同井戸の跡が残っており、ここで繰り広げられた人々の生活が呼び起こされます。
 しかし水道施工までには村を分けての、賛成派・反対派の論争があったことも語られています。
 岡山市水道誌によると当時は御津郡芳田村であり岡山市の市外給水は芳田村が最初であり、続いて大野村が給水を受け、福浜村も昭和2年4月、今村は昭和4年4月に給水を開始しています。
 芳田村でも、井戸の水質の良いとされた西市地区は数年遅れて給水を受けています。
写真上段
 和気さんの旧屋敷に残る「井戸」で。300年以前の物と思われ、豊島石をくりぬいた井戸で土に埋もれて深さは確認できませんが、藤田用水・新川の手堀事業が昭和10年ころに行われており、その時に住宅は移転したが井戸は新川の辺りに保存されています。
 今では、この井戸の所在を知る人も少ないが、この井戸は米倉の歴史を語る上で重要な遺産であり米倉重要文化財に値します。
写真下左段
 和気二郎さんの屋敷に残る備前焼の「水がめ」で、名もある三架かめ(大きさを一架・二架で表した)で、備前焼の瓶は水質の保存に優れており、生活用水の貯水には欠くことのできない物であった。。
写真下右段
 北村さんの庭先に残る共同水道の跡である、敷設当初は岡山市から取水する水道料金は高く、また工事費用もかさむため共同水道として設置された箇所も多い。岡山市に編入されるまで水は高価なものであった。
 風呂水には川水を使い、また水道水を使用する時は、蛇口を絞り朝から数滴づつ風呂桶に水を張った記憶が思い出される。理解出来ないでしょうがメーターの針が進まないと考えた。
 情報水道構想の語源は蛇口をひねれば水道水のように情報が溢れるであろうが、渇水の言葉を聞く度に水道水の大切さとありがたさを強く感ずる。

<電燈の明り>
 山陽水力電気株式会社(現・中国電力)の資料によると、御津郡芳田村・福田村・今村・大野村は大正7年(1918年)9月9日に送電を開始し、初めて電燈がついた、設置戸数も順次増えて翌年には全戸に行渡り電燈のない家はなくなった。
 一戸当たり5燭光(6W位)1灯のみであったが、人々は行灯やランプの生活から電燈の明りに驚嘆したといわれている。
<電話>
 NTT資料によると、芳田村への電話開通は明治36年3月29日となっているが、当時の設置箇所等に関しては記述がなく不明である。
 一般家庭への普及は昭和30年(1955年)以降のことである。
<宇野線の開通>
 宇野線は明治43年6月12日(1910年)岡山−宇野−高松間が開通した、昭和の中頃まで蒸気機関車が黒い煙を吐いて走る長閑な光景があった、昭和25年(1950年)10月にヂーゼル化され、昭和35年(1960年)10月1日には電化され、その面影も変わった。

新県道・岡山−児島線の開通
 昭和18年に国道22号線として上中野から下中野を経由して妹尾に通じる新道が新設された、それまでは下中野から西市京殿を抜けて現在の西市トマト銀行の前を西に入り吉田さん宅の前から米倉港、そして旧相生橋を通って妹尾を経由し児島ならびに宇野方面に通じていた、狭い道路を馬車や自動車そして人力車や自転車や荷車が往来していた。
 新道・岡山児島線は昭和29年12月24日に全線開通した、当時は現国道30号線ならびに岡山−八浜線は無く、全ての車がこの街道を利用し、県南部を結ぶ交通の要所となった。
<国道2号線バイパスの開通
 国道2号線バイパスは、米倉町内を分断する形で、高架橋道路として昭和47年4月1日に片側2車線が開通し、昭和51年3月25日に全線が開通した、当初は交通量も少なく交通停滞も見られなかったが、今では交通の難所となった。

<笹ケ瀬川の淡水化>
 児島湾締切堤防は農林省によって、昭和26年1月(1951年)着工され、昭和31年2月に潮止工事が完了、昭和34年(1959年)2月に長さ1558メートル、幅20メートルの堤防締切工事が完成し、湖水面積1500haの淡水湖が出来上がった。
 それに伴い、笹ケ瀬川沿岸の生態系は変わり、地域の漁業はもとより生活環境にも大きな影響を与えた。

<ラジオ>
 昭和6年(1931年)JOKK岡山放送局開局。最初は鉱石受信で、一般への普及は10年くらい後であった。
<テレビ>
 昭和32年(1957年)NHK岡山テレビ局開局。映像は白黒であり。
 NHK岡山放送局の当時の記録によると、ラジオ受信者件数は岡山県全体で281千件、岡山市で46千件。
 テレビ視聴者件数は岡山県全体で46千件、岡山市で1700件であった。
<下水道>
 下水道は平成14年11月より第一次敷設工事が着工された。


米倉の今日
 時代は時代を創る、豊かさと失い行く物の大きさ。
 私たちは何を失い、何を得たのだろうか。
 歴史を振返り、時の流れの中でインターネットの世界から、私たちの住むこの町を眺め、その歴史の中に何かを求めたいと願う。


370年の眠りから覚めて、休耕田に繁る葦

私たちを育くむ、この大地、新しいものと、古きもの、二つの顔を持つ米倉、やがて時の流れに流されて行く。
休耕田の葦は370年の眠りから覚め青々と繁る、開拓の歴史の重みと植物の生命力、そして自然の雄大さを感じる。
私たちに何かを語りかけています。



あとがき
 先人たちは笹ヶ瀬川と大きく係わって来ました、渡し舟が行き来し、米倉港に帆かけ舟が出入りし、金比羅詣での旅人が一夜の宿をとり、夜は行灯の灯りの下で酒が酌み交わされ、思うに心の安らぎを感じます。
 後に木製の相生橋がかかり、それも帆かけ舟が通る時は中央の橋板が外され、旅人や牛馬が行き来し、港の回船問屋今田屋には大勢の商人が出入りし繁盛した光景は歴史ドラマの感がします。
 また県道児島線と国道2号線の中間に位置する伊東さんの住宅の前に渡し場の石積みが残っています、その上に立つと船頭さんの「おーい・ふねがでるぞー」と叫ぶ声が聞こえる思いがします。
 また対岸には木製旧相生橋の痕跡を留め、街道沿いには記念碑と共に素材が保存されています。
 一方川面では豊富な魚介類に恵まれ生活の糧として来ました。児島湾が淡水化する以前の昭和20年代までは潮が満ち引きし港に立つと潮の香りが漂っていました。
 今では天然記念物とされている「かぶとがに」が多く生息し、四つ手網に掛かって漁師さんを悩ませていました。
 子供たちは夏場川で泳ぎ、貝を掘り魚を捕り笹ヶ瀬川と共に成長して来ました。
 しかし淡水化と共に河川の汚染が進み今はその見る影も無くなってしまいました。子や孫が語れる故郷を残して行きたいものです。
 子供のころ、港の荷揚げ場で巡業芝居見物をした日のこと、夏の夜る港で時代劇の映画を見た日のこと、今も私たちの心に深く刻まれています。
 私たちの住む町は開拓されて370年、一条の流れは強く弱く、また太く短く変化した中で私たちの先祖は無名の歴史の力として大地に力強く鍬をふるい鎌をにぎって親から子へ、子から孫へと歴史を積み重ねて来ました。
 あの江戸時代の厳しい収奪に耐え、天才地変をくぐりぬけ、幕末の政変、伝染病の恐怖におののき、また肉親を戦いに失い悲しみに耐え、近代化の波に洗われ今日を迎えました。
 都市化の波は370年の老樹におおいかぶさり、人の心の変化、価値観の変動はめまぐるしいものがあります。
 このような時、私たちは過去を振返り将来を望見する時ではないかと思います。

路肩に投捨てられる缶 停滞する車
港に流れ着くごみ 汚染された干潟


 自然の力とは計り知れないエネルギーを持っています、児島湾の前身穴海と吉井川、旭川、高梁川、三大河川による自然の力、そして堆積の原理とも言うべき自然堤防、また干潟の造成、自然の営みの中に私たちは今学び今考えなければならないのではないでしょうか。


 このページは西市在住の新庄幸夫さん、米倉の安井定好さんのご協力を得て、書籍「ふるさと芳田」を参考に作成しました。
 近隣の歴史に関しては福田在住の荒木公さんの「むかしの近隣の村」を参考に作成しました。
 また 倉敷紡績記念館、早島町教育委員会ならびに中国四国農政局の資料提供により作成しました。
 ご理解ご協力に感謝致します。

米倉村由来を記す古文書



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