米倉の生い立ち
現在の米倉地区は紀元前500年ごろはまだ瀬戸内海の海底でした。年を重ね旭川と笹ヶ瀬川に挟まれた所が川の堆積作用によって平野が作られしだいに広がり海岸線は南に向って広がって行きました。
平安時代から鎌倉時代にかけて、旭川の三角州はしだいに広がり開墾も行われ荘園がつくられました。
「ふるさと芳田を探訪する会」の会長新庄幸夫さんは「ふるさと芳田」の発刊に当って我がふるさとを次ぎのように語っておられます。
「蒼海変じて陸地と化す」これはふるさと芳田に当てはまります。名の通り児島は島で岡山との間は「吉備の穴海」と呼ばれ遠浅の海でした。
むかし日本武尊が悪魚を退治し、佐々木盛綱が馬で渡った海です。
吉井川・旭川と高梁川が多量の土砂を運んできて穴海は次第に浅くなり干潟が沢山できました。
この干拓を人々は鍬や鋤ともっこなどを使い土手を築き溝を整備し田を造成しました。
牧石郷・伊福郷・弘世郷・三野郷・鹿田荘・野田荘などです。さらに海岸の葦原が開墾の対象となり、大安寺荘・新堤保・西野田荘や三野新庄(三野新郷)などの古田が造成されました。
戦国の世が終わると、領主が開墾を始めました。宇喜田氏の酒津・早島などの墾田がそれです。
この頃に児島と本土が繋がり児島湾が形成されました。
江戸時代には前池田氏が児島湾沿岸の葦の生えた干潟の新田造成に着手しました。福島から米倉の地域(福島・福富・福成・福田・泉田・万倍・米倉)で、藩の許可を受けた有力者が開墾しました。その工事半ばで藩主池田忠雄公が死去して嗣子光仲公は鳥取へ国替え鳥取から池田光政公が入国しました。
開墾は継続され万倍新田が完成し当新田が開墾されました。当新田開墾の知識や技術が活用され三幡から九幡までの広大な新田が開墾されました。
次に尾上新田・青江新田もできました。幕末には興除新田も藩の監督で造成されました。
開墾は明治以降も藤田組などが続けて藤田地区や岡南の浦安地域・あけぼの町地域ができました。
また締切り堤防が完成し児島湾は児島湖となりました。
富田村・新保村・西市村・泉田村・万倍村・米倉村と当新田が合併し芳田村として発足したのは明治22年でした。
米倉の誕生
寛永5年(1628年)に開拓された新田で、備中都窪郡松島村(現在の倉敷市松島)の浪人和気与衛門の子、与左衛門が備前に移住し、藩主の許可を得て開発された。
和気氏は、戦国時代の小城主であったようです。与左衛門に協力し開発資金を援助したのが、備中都窪郡中田村の浪人細田四郎兵衛で、彼も一族をつれて入植しました。その後浜野村の島村長右衛門が入植しました。
この和気、細田、島村の三軒をもとにこの村の開発が進められ、この三軒を元株といっていました。
和気与左衛門は新田完成の後に、その功績により庄屋役を命ぜられ、のち同家は代々大庄屋を勤めました。