中巻
宇宙から見たわが町
宇宙から見た岡山平野(農業環境技術研究所資料)
その昔、中国山地に源を発する、吉井川、旭川、高梁川、それぞれの川は坂根、玉柏、湛井の地点で瀬戸の穴海に注ぎこんでいた。
中国山地は古代から明治に至るまで「真金吹く吉備の国」と言われ良質の鉄の一大産地であった、しかし、当然のことながら大量の木材を消費した、膨大な地域に及ぶ森林が数百年にわたって伐採され続け、河川の沖積作用は加速され、タタラ製鉄が始まったとされる6世紀から戦国時代に至る約1千年で間に河口は年々、南へ南へと進展し瀬戸海峡は干潟が発達し、平安時代には大安寺の庄、鹿田の庄といった荘園が誕生している。
荘園時代を見てみると、大化の改新以来朝廷は土地の私有を認めなかったが、人口の増加で自発的な開拓を許していた、この開拓は貧富の差を大きくしたため、朝廷は開拓できそうな土地をお寺やお宮に寄進したことから各地に寺社の荘園が出来ていった。
9世紀から12世紀に渡る平安時代は荘園の全盛期で、奈良・京都の社寺、貴族たちは荘園になるべき土地を朝廷からもらいどんどんと開拓していった。
穴海周辺には荘園となる土地が点在していた、これに目をつけた中央の大社寺は競って朝廷からこの土地をせしめ開拓荘園を作っていった。
この頃、文献に出てくる荘園は、岡山平野の東から。
1、大豆田の荘。
吉井川に沿った、今の邑久郡邑久町豆田のあたりで、上道広成が奈良時代に奈良の西大寺に寄進した土地である。
2、豊原の荘。
邑久郡邑久町の千町平野の南端一帯の荘園で、平安時代から奈良時代になっても後鳥羽上皇の領地であったといわれ、元々は朝廷の荘園であったかも知れない。
3、金岡の荘。
平安時代に吉井川の右岸に開拓された土地で、今の西大寺金岡、久保、広谷の一帯で、鎌倉時代は東金岡の荘と西金岡の荘に分かれ東金岡の荘は奈良の興福寺西大寺荘園であった。
4、鹿田の荘。
旭川沿岸の荘として平安朝の初めに開拓され、その後、政治の実権を握った藤原氏の荘園で、今の岡山市鹿田小学校の位置するあたりである。
鹿田は干潟がなまったものらしい、この荘園をめぐっては略奪あり放火あり争いの満ちた数々の事件を秘めた荘園である。
荘園には山海の幸が集まり河口の港として繁栄し白帆を掲げて出船入船が荘園を中心として穴海を渡っていた。
寛政年間にできた「吉備温故」によると、上中野・下中野・今村・新保・西市・京殿・大供・岡町・内田・東古松・田住・二日市・円覚・泉田・十日市・七日市・青江の一帯が鹿田の荘と推定される。
5、荒野の荘。
鹿田の荘と旭川を隔てた対岸、今の岡山市平井のあたりで、村主衛門五郎幸重が建始元年に奈良の春日神社に寄進したもののようである。
6、円覚の荘。
青江うなぎの産地として知られた、岡山市青江の付近で、元慶7年備前の国御野郡円覚寺の荘は四十九町あった。
7、大安寺の荘。
大安寺駅のあたり一帯で、荘園の前身は天平16年に奈良の大安寺が朝廷からもらった「長江原」の土地のようである。
8、万寿の三荘。
万寿の本荘、山陽線庄駅西のあたり。
万寿の本荘、倉敷市上東、庄小学校のあたり。
万寿の本荘、旧倉敷紡績万寿工場のあたり。
岡山倉敷間20キロの沿線は、「松島」などが浮かぶ海峡で、そこに土砂が堆積し干拓が次第に進みその中に点々と取残されていた湿地帯が今度は荘園となっていった。
しかし大掛かりな干拓がなされたのは、築城に伴う土木技術が進歩した戦国時代以降である。
戦国大名、宇喜多直家・秀家父子は福岡の地から岡山の地に城を移し城下町を整備していった。
そして天正9年(1581年)早島の地に宇喜多堤といわれる潮止め堤防を築き、その4年後には高梁川沿いに酒津堤防を完成させ、今の倉敷市北西部を開発したと記録されている。
さらに江戸初期には、備中の松山藩によって倉敷の西部一帯が干拓され、かつて海に浮かんでいた児島が陸続きになり「瀬戸の穴海」は児島湾と水島灘に分断された。
戦国時代が終わり、各地の大名は武力より国を富ませ、政治や教育によって人心を安定を図った、池田光政は熊沢蕃山を擁して治山・治水・民政・飢餓対策に当たり、津田永忠を擁して後楽園の造園、閑谷学校の建設、倉安川の開削、倉田新田の開発、幸島新田の開発、沖新田の開発、田原井堰の開削、百間川の開削等の治績を20余年で成し遂げた。
しかし、新田干拓には悲しい秘話も残されている、沖新田干拓潮止め堤防工事が難航し、津田永忠は窮地にあった時に同家の美しい小間使い「きた」は苦境にたつ主人の助けになるものならと「若い女性が工事の基礎となり人柱に立てば必ず工事が成功すると聞いています、私で良かったらその人柱に立たせてください、十万石のお米のために竜宮にこの身体をささげます」と主人永忠に申し出て、潮止め堤防の基礎となって若い命を堤防の底深く埋めた。
「きた」の死に応えろと人々はふるい堤防工事は完成干拓は出来たと言う、今も沖田神社には人柱伝説が伝わっている。
明治に入り、藤田伝三郎の手によって児島湾開拓が起こされ、苦難の開拓史を辿りながら、後にその事業を国に移し昭和38年に着工から約40年の歳月を経て世紀の大事業、児島湾開拓が完了した。
新しい土地から、綿・藺草等の特産品が生まれ全国的な名声を博した。
しかし今、課題が露出している、湖水汚染である、児島湖の水は、全国湖沼のワースト上位にランクされる。人口の増加や生活様式の変化が水質の悪化、ゴミの流入など児島湖を取り巻く環境の変化が自然生態系に大きな打撃を与えてしまった。
先人の偉大な遺産をどう守り、どう調和していくか、私たち自身のためにも、次世代の子供たちのためにも、そしてこの広大な備前平野を築いてくれた幾万という先人の方々のためにも健全な大地を守り通して行かなければならない。
わが町の歴史を語る中で、天然水は公有物であるが、その取扱いに関しては上郷の慣習的特権があり、「上郷のものには牛にでも頭を下げろ」との言葉が意味する通り、下郷の開拓農民として想像し難い苦心があった。
先人たちは余水を笹ケ瀬川を跨いで藤田新田に送った、この心を私たちは大切にして行かなければならない。
宇宙から一点の「わが町」を見る時、それを強く感じる。
開拓の足跡 進昌三「岡山の干拓」を参考
- | 備前新田干拓年表 | - | 備中新田干拓年表 | ||||||||
新田名 | 干拓 年代 |
面積 ha |
経営 | 個人名 | 新田名 | 干拓 年代 |
面積 ha |
経営 | 個人名 | ||
1 | 福島新田 | 1625 | 72.64 | 藩営 | 池田忠雄 | 生坂 | 1583 | 91.10 | 藩営 | 宇喜多秀家 | |
2 | 濱田新田 | 1628 | 53.31 | 民営 | 濱・庄屋 | 平田 | 1583 | 90.00 | 藩営 | 宇喜多秀家 | |
3 | 福富新田 | 1628 | 87.65 | 藩営 | 池田忠雄 | 大島 | 1583 | 56.00 | 藩営 | 宇喜多秀家 | |
4 | 泉田新田 | 1628 | 79.03 | 藩営 | 池田忠雄 | 福島 | 1583 | 67.00 | 藩営 | 小堀遠州 | |
5 | 米倉新田 | 1628 | 30.50 | 民営 | 和気与左衛門 | 子位庄 | 1583 | 27.20 | 藩営 | 宇喜多秀家 | |
6 | 新福新田 | 1630 | 50.00 | 民営 | 原田・庄屋 | 西阪 | 1583 | 46.50 | 藩営 | 宇喜多秀家 | |
7 | 福田新田 | 1631 | 94.28 | 民営 | 小郷・庄屋 | 中庄 | 1586 | 100.80 | 藩営 | 宇喜多秀家 | |
8 | 中川新田 | 1632 | 120.00 | 民営 | - | 三田 | 1586 | 33.90 | 藩営 | 宇喜多秀家 | |
9 | 万倍新田 | 1637 | 26.01 | 藩営 | 池田光政 | 富久 | 1600 | 132.00 | 藩営 | 小堀遠州 | |
10 | 用吉新田 | 1640 | 34.20 | 民営 | - | 濱 | 1600 | 138.00 | 藩営 | 小堀遠州 | |
11 | 福泊新田 | 1647 | 35.00 | 藩営 | 池田光政 | 老松 | 1600 | 106.00 | 藩営 | 小堀遠州 | |
12 | 西湊新田 | 1650 | 31.00 | 民営 | - | 東中新田 | 1615 | 81.70 | 藩営 | 池田長幸 | |
13 | 福吉新田 | 1650 | 25.00 | 民営 | - | 西阿知新田 | 1615 | 42.00 | 藩営 | - | |
14 | 当新田 | 1654 | 114.13 | 藩営 | 池田光政 | 富井 | 1617 | 160.00 | 藩営 | 池田長幸 | |
15 | 金岡新田 | 1660 | 232.00 | 藩営 | 池田光政 | 白楽市新田 | 1617 | 50.10 | 藩営 | 小堀遠州 | |
16 | 延友新田 | 1662 | 25.60 | 藩営 | 池田光政 | 渋江新田 | 1618 | 86.50 | 藩営 | 池田長幸 | |
17 | 松崎新田 | 1663 | 107.30 | 藩営 | 池田光政 | 田ノ上新田 | 1618 | 61.40 | 藩営 | - | |
18 | 円山新田 | 1663 | 71.00 | 藩営 | 池田光政 | 笹沖新田 | 1620 | 134.00 | 藩営 | 池田長幸 | |
19 | 倉益新田 | 1679 | 89.00 | 藩営 | 池田綱政 | 沖新田 | 1620 | 37.90 | 藩営 | 池田長幸 | |
20 | 倉富新田 | 1679 | 120.00 | 藩営 | 池田綱政 | 倉敷後新田 | 1621 | 62.20 | 民営 | - | |
21 | 倉田新田 | 1679 | 120.00 | 藩営 | 池田綱政 | 加須山新田 | 1624 | 52.00 | 民営 | - | |
22 | 福浦古新田 | 1682 | 40.00 | 民営 | - | 福田古新田 | 1625 | 93.59 | 藩営 | - | |
23 | 幸島新田 | 1685 | 557.00 | 藩営 | 池田綱政 | 四十瀬新田 | 1629 | 97.60 | 藩営 | - | |
24 | 沖新田 | 1692 | 1918.00 | 藩営 | 池田綱政 | 中島西阿知新田 | 1629 | 43.00 | 藩営 | - | |
25 | 興除新田 | 1824 | 832.00 | 藩営 | - | 福井新田 | 1629 | 38.00 | 藩営 | 池田長常 | |
26 | - | - | - | - | - | 西阿知新田 | 1629 | 32.00 | 藩営 | - | |
27 | - | - | - | - | - | 吉岡新田 | 1629 | 55.60 | 民営 | - | |
28 | - | - | - | - | - | 大福新田 | 1631 | 128.00 | 藩営 | - | |
29 | - | - | - | - | - | 加須山当新田 | 1640 | 100.00 | 民営 | - | |
30 | - | - | - | - | - | 粒浦新田 | 1643 | 118.00 | 藩営 | - | |
31 | - | - | - | - | - | 倉敷末新田 | 1645 | 31.40 | 藩営 | - | |
32 | - | - | - | - | - | 西田新田 | 1652 | 83.00 | 藩営 | - | |
33 | - | - | - | - | - | 亀山新田 | 1652 | 99.20 | 民営 | - | |
34 | - | - | - | - | - | 八軒家新田 | 1654 | 37.10 | 藩営 | - | |
35 | - | - | - | - | - | 天城外新田 | 1660 | 26.00 | 民営 | - | |
36 | - | - | - | - | - | 北面新田 | 1665 | 73.00 | 代官 | - | |
37 | - | - | - | - | - | 茂浦新田 | 1675 | 28.00 | 民営 | 難波次郎兵衛 | |
38 | - | - | - | - | - | 西浦前新田 | 1675 | 150.00 | 民営 | 大島弥左衛門 | |
39 | - | - | - | - | - | 前潟新田 | 1679 | 114.70 | 民営 | - | |
40 | - | - | - | - | - | 帯高新田 | 1679 | 50.00 | 民営 | - | |
41 | - | - | - | - | - | 早高新田 | 1679 | 51.80 | 民営 | - | |
42 | - | - | - | - | - | 丸島新田 | 1679 | 28.00 | 民営 | - | |
43 | - | - | - | - | - | 帯江新田 | 1707 | 150.00 | 藩営 | - | |
44 | - | - | - | - | - | 早島新田 | 1707 | 183.00 | 藩営 | - | |
45 | - | - | - | - | - | 福田古新田 | 1725 | 233.00 | 民営 | 力郎兵衛 | |
46 | - | - | - | - | - | 西浦大崎新田 | 1793 | 25.00 | 民営 | 三宅弥平治 | |
47 | - | - | - | - | - | 鶴新田 | 1846 | 226.00 | 民営 | 三宅直吉 | |
48 | - | - | - | - | - | 福田新田 | 1852 | 954.00 | 民営 | 野崎武左衛門 | |
合計面積 | - | 4,966.65 | - | - | 合計面積 | - | 4,905.29 | - | - |
中世の開拓
新保村、西市村、京殿村、木村、下中野村、富田村。
御野郡古図解説(土肥経平著、寸簸の塵より)
簸川 旭川の古名
宇治郷 宇野村の其付近
大嶋 岡山市の一部
岩井嶋 石井、大野、両村の一部
竹島 高島
穴海 御野上道両郡の南部児島湾
春湊 平井村湊
鹿田庄 鹿田村
内田氏蔵海面古図 |
御野郡古図 |
児島湾開拓図 |
歴史の足跡 荒木公さんの「むかしの近隣の村」を参考
明治25年7月22日大洪水、前夜よりの雨は午前8時頃より暴風雨となる、旭川の出水は二丈余となり旭川沿岸の損害多く出石町、石関町、南部の堤防決壊のため一面海となる、浸水床上に達する。
そのため児島湾の堤防を3ケ所決壊させ排水する。沿岸地方は十数日間海の中にいるようで満潮時には海水が床上までやって来た、稲作は収穫皆無となる、中北部地方も山崩れ、堤防決壊のため荒地となった所多し、県下の荒地六千町歩、復旧工事費国庫補助170万円、県費支出合わして200万円、その損害多大なることを知ることが出来る。
これは当時の記録である。