後世への記録(記録シリーズ・事業篇)

第三巻



NO−10 笹ヶ瀬川堤防改修工事(平成22年2月)
 この度、平田地先の笹ヶ瀬川と足守川の合流点の堤防改修工事が行われた。
 笹ヶ瀬川は古くから運輸・水利・景観と私たちに多くの恵みをもたらしてきた。
 潮が満ちると海の魚が昇り、潮が引くと遠くまで干潟が伸びシジミや孔シャコが沢山取れた。
 児島湾締切堤防は農林省によって、昭和26年1月(1951)着工され、昭和31年2月に潮止工事が完了、昭和34年(1959)2月に長さ1558メートル、幅20メートルの堤防締切工事が完成し、湖水面積1500haの淡水湖が出来上がった。
 それに伴い、笹ケ瀬川沿岸の生態系は変わり、地域の漁業はもとより生活環境にも大きな影響を与えた。
 その後も、この一帯は豪雨、増水の度に危険にさらされてきた。
 工事担当者の話として「この堤防は川砂を盛り上げて造られた非常に軟弱な構造である」と。
 記録によると、この地域は昭和7年(1932)改修工事が行われ7ヵ年の歳月と115万円の国費を費やして出来た田中地先干拓地の外堤防である。
 足守川の河口に位置するため笹ケ瀬川が平田ならびに田中側に大きく膨れて流れ出水の際はここに圧力が加わり堤防が常に危険におびやかされていた。
 このことから澪すじを直線に堀り替え、もとの澪すじをその土砂で埋め広大な干拓地が造られた。
 この土砂は北部の花尻山からトロッコで運び込む当時としては大変な工事であった。
 また、瀬戸内海から児島湾を通り笹ヶ瀬川をさかのぼって浚渫船が入り新しく澪すじとなるところを掘削し、その水と泥を一緒にパイプを通して旧堤防と新堤防の間に吹上げ、これによって今迄沼地であったところが新しい陸地となった。
 当初、出来あがった廃川陸地を直ちに何かに利用する計画はなかったらしく、しばらくは草ぼうぼうの荒れ野であった。
 子供たちは、大人の背丈ほども茂る芦野の原で迷路を作り遊んだ。
 廃川地には田中樋門に通じる一筋の細い道があった。
 ある日のこと、子供たちはその道に穴を掘り水を満たし、その上に刈り取った茅を敷き土を盛って「落とし穴」作った。
 そして、芦野に隠れ人の通るのを待った、そこえ漁を終えて帰るおじさんが荷物を背負って通りかかった。
 おじさんはまともに「落とし穴」にはまった、子供たちは一目散に芦野を駆け抜け逃げ帰った。

 その後、戦争が激しくなり食糧増産に近隣住民がサツマイモ等を作る畑に変わった。
 戦後は、学制改革で新制の中学校が各市町村に新設されることになり、その用地として廃川地が決定した。
 地域住民、生徒たちの奉仕活動による「御南中学校」の誕生である、御津郡南部中学校として当時の御津郡今村・芳田村・白石村・大野村の4ケ村が組合立として設立された。
 通学範囲も北は大野村の大安寺・高柳、白石村の花尻、南は芳田村の泉田・富田・当新田そして東は下中野・上中野・木村と広かった。
 対岸の今保とは田中水門に渡し場があり生徒たちは川舟で通学した。後に通学橋が架けられた。
 その後、次々と施設が立地し、昭和31年には市内バスが乗り入れ大きく変貌した。
 今では、「県立おかやま福祉の郷」として、南部健康づくりセンター、岡山西養護学校、健康づくり財団附属病院、岡山職業能力開発センターそして市立御南中学校が一望される。
 そして、平成17年7月には岡山西バイパスが開通した。
 往時を回願すると夢のようである。
 変貌する地域の安全に欠かせない堤防改修工事、全線改修は7カ年計画と聞く、早期改修が望まれる。

村民の奉仕活動による開拓、昭和18年

御南中学校、昭和26年、全校舎落成

堤防改修工事




NO−11 米倉港防波堤改修工事(平成22年3月)
 米倉港は足守川、笹ヶ瀬川の水運に恵まれ、都窪郡東部、吉備郡南部、御津郡西部の貨物の集散地で水位も深く,また大樋門内の水路が各地に通じて舟の便がよく県南の集積場として船の出入りが頻繁であった。
 昭和10年8月に「米倉港公共荷揚場」が総工費1456円で完成し備前米倉港として知られるようになった。
 また、潮が満ちると魚類も豊富で漁船も多く係留されていた。
 漁具は四つ手網・投網・ウナギかけ・釣具などで獲物は、えび・白魚・ボラ・イナ・ウナギ・べいか・えい・はぜなどで秋には四つ手網で「秋アミ」がとれていた。
 また水ぬるむころ子供たちは港で泳ぎ、干潟で、ちんだい貝・はい貝・も貝・かき・シャコなどを捕って遊んでいた。
 この度の改修工事においてもその痕跡を留める貝殻が多く出土した。
 今では天然記念物として保護されている「かぶとがに」も多く生息し、四つで網にかかり漁師を悩ませていました。
 米倉港は昭和30年代までイ草の染土や農業用の土管などの船が出入りしていた。
 港の痕跡を留める舟止めも一基補強してその姿を後世に残した。
 娯楽の少ない昭和20年代、この広場で夏の夜る映写会が行われ、また時に舞台を設け地方興行の芝居が行われていた。
 近年は、この一帯が笹ヶ瀬川と足守川の合流点に当たるため豪雨、増水の度に危険にさらされてきた。
 この度、70年振りに米倉港一帯の老朽化した護岸ならびに防波堤の改修工事が行われた。
 沖合には、近年この季節カモと共に鵜が飛来し魚を捕る光景を見せてくれる。

昭和初期、四手網漁





NO−12 米倉水路改修工事(平成22年5月)
 この地は、寛永5年(1628年)に開拓された新田で、それから380年、またひとつ自然の姿が消える。
 締め切り堤防の袂にあたり笹ヶ瀬川樋門の遊水地として役割を果たしてきた、その水路の護岸改修が行われた。
 昭和40年頃までこの一帯は川魚が多く生息しあの名の知れた「青江うなぎ」も捕れた、その味は絶品であった。
 夏場は、水草の「フシ」が川一面に茂り水の
浄化作用を果たしていた。
 今に残された自然の宝庫で、その痕跡を留める「からす貝」の貝殻が多く出土した。








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