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学区内の河川

1 倉安川

(1) 母なる川“倉安川”との共存

倉安川 一級河川旭川水系「倉安川」は、全国でもあまり例をみない特殊性をもった河川である。

この特殊性を明らかにするには、歴史的な生い立ちから説明しなければなるまい。

時の将軍徳川吉宗は、全国の諸藩に年貢米増収と増え続ける人口問題対策のため、新たな農耕地=新田開発令を下した。

当時の岡山藩主池田綱政(1638〜1714)へもその命は下ったが、承応3年(1654年)未曾有の「備前洪水」「延宝大洪水」による凶作に加え、京都御所の大造営により莫大な資金不足を抱えており、大きな試練をうけることになった。

しかし、岡山藩随一の土木技術者=津田永忠(1640〜1707)は人と技と金を駆使し、延宝7年(1679年)に倉田三新田293町歩、元禄5年(1692年)沖新田1,540町歩もの新田開発を見事に完成させた。

当時としては、有明海や八郎潟の干拓事業に匹敵し、「なんびともなし得ない工事」として伝承されている。

しかも、その新田への灌漑用水として、永忠は遥か20kmも離れた吉井川の吉井堰から潮の影響のない水を取水することを考案し、新田開発とあわせ、幅2間、全長9,337間半の倉安川を打通したのである。

また、これら干拓により城下へ物資を搬入する舟船が、児島湾を三里も回航せざるを得なくなったことから倉安川をバイパス的運河として利用し、高瀬舟が往来しやすいように、川の勾配はレベル(水平)で開削してある。

当時の記録では、米や塩、薪などを満載した高瀬舟が、50日間で1,000隻も往来していたというから、舟運としても隆盛であったことが伺われる。

倉安川は平井地区で大きく迂回し、旭川を逆行して配置されているが、これは平井水門外での旭川の水深が浅く、吃水(きっすい)の深い舟は満潮を待たないと通航できなかったため、水深が確保できる位置まで北へ約300間が新たに開削されたものである。

この倉安川は、当時は「新川」と呼ばれていたが、岡山城の倉を安らかにする川 → 倉安らかなる川 → 倉安川と命名され、岡山藩の台所と地域住民の生活を支えた「母なる川」として愛されていた。

一方、新田への取水も干拓地側である南側堤防を北側堤防より低くし、吉井川からの流水を一気に堰上げることにより人工的に倉安川を氾濫させて、新田1,900町歩の耕地を一夜にして満水させたと言われる。

時は移ろい、交通機関が川から陸へ移り変わるにつれ、人々は職を変え、川に背を向け、賑わいが消え、いつの間にか荒廃した川が取り残されることとなった。

このような背景と歴史的経過の中で、昭和30年代後半からは岡山市のベッドタウンとしての開発が進むとともに、昭和45年9月に至り流域が市街化区域に編入されたことから浸水被害が多発するようになり、倉安川は梅雨時期になると「暴れ川」に豹変するようになった。

このように、倉安川は本来の河川がもっている機能、すなわち

  • 自己の水源をもち、常に自然に水が流れる。
  • 動植物の繁殖の場
  • 流域の余水を、川が持っている勾配により自然に流下させる。

といった機能をまったく具備せず、逆に

  • 高瀬舟が往来しやすいように勾配がないために、河川独自の流(排)水ができない。
  • 新田への給水は、川を氾濫させてまかなえるようにしている。
  • 平井地区で旭川に対して遡上し、水流は逆方向であるため排水効率が悪い。

という塩梅で、運河としての機能、そして川を氾濫させるに適した地形環境と河川構造、更には堰、樋門、橋など洪水の流下を阻害する多くの機能を持たせてあり、自然の河川に比して「特殊」であることがご理解いただけるだろう。

出典:倉安川改修事業促進期成会設立総会資料
(岡山市河川港湾課作成)

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(2) 文献に見る倉安川

倉安川 上道郡(現岡山市)に、倉田、倉益、倉富、の三新田を開いた際、吉井川と旭川を結ぶ運河及び倉田新田、沖新田への灌漑用水路としてつくった川である。

吉井川右岸の岡山市吉井から、一日市(ひといち)〜楢原〜西祖〜竹原〜を経て中川で百間川を横断し、湊から平井に出て桜橋1丁目(旧 網の浜)で旭川と結んでいる。

池田光政が津田永忠に命じ、延宝7年(1679年)2月に起工し同年中に完成、延長20kmで幅は6.6〜7mである。

全水路が新たに開削されたのではなく、既存の用水路や吉井川乱流のあとに残された河跡湖などを結びつけたものと考えられる。

この開発の目的は、和気、上道郡の年貢米を岡山城下に搬入するためと、倉田新田などの329haの新田への給水にあった。

倉安川には多くの支線用水路があり、これへの分水のため樋門を設けているが、用水の配分は川奉行のもとに「番水制」をとっており、西祖の三膳樋や吉井、楢原、竹原の三胴木についても定書による統制が行われていた。

当初、旭川への出口は平井であったが、水深の関係で網浜まで延長した。

なお、取水口は昭和54年3月、やや上流の赤磐郡瀬戸町(現岡山市)大内の坂根合同堰が完成したことにより、翌年からはここから取水することになった。

左岸の備前大用水と対比できる、現在なお重要な灌漑用水である。

出典:岡山県大百科事典上巻,874ページ

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(3) 倉安川余禄 「山が動いた、川は流れた!」 (平成21年10月13日)

倉安川の水が、西から東へと流れはじめました。 臭い、汚い、魚も住めない・・・、そんな倉安川が、この時期にそれこそ何十年ぶりにサラサラと流れ出したのです。

用水期(水稲づくりに水が必要な時期)には旭川の本流から水が導入され、6月〜10月の間は“川”の体をなす倉安川ですが、中秋から初夏にかけての8ヶ月間というものは旭川そのものの水位が下がり、児島湾から押し上げてくる塩水のこともあって、倉安川には一滴の水も入ってこない(入れられない)状態が久しく続いていました。(「倉安川を百間川で分断して以降」という説もあれば、「物心ついてよりこの方、冬水が流れたのを見たことがない」という古老もいます。)

一方では、倉安川流域は宅地化が進み、(下水道が漸次普及しているとはいいながら)多量の生活雑廃水がこの川に流れ込み、川底には汚泥が堆積し、特に冬場には淀んだ水は腐って悪臭を放ち、アメンドロが湧く“死の川”となっていました。

さて、平成13年4月、円山の住人=實村 貢氏が主宰する「富山の自然を楽しむ会」(以下、単に「楽しむ会」という)が会員6名で発足しましたが、彼らの幅広い活動の中でも「楽しもうにも楽しめない」のが“死の川、倉安”でした。

ときは移ろい、平成20年に至り、「なんとかこの川に自然を取り戻したい」「一年を通して水が流れる川にしたい」との祈りを胸に、彼らの行動は開始されたのです。

岡山市や国土交通省の担当者に面接し、大学の先生を招いて勉強会を開き、連合町内会当局者や水利関係者を交えて現地研修を行い、倉安河畔には「倉安川をきれいにしょう」の幟旗を立てるなど、意欲的な行動が展開されました。

祇園用水と倉安川の交差地点の周辺地図
サイホンを通り、倉安川と立体交差して姿を現した祇園用水。
このY字分岐から、祇園用水の水が倉安川へ取り込まれる。

現地調査(「ニューストピックス(2009.3.6)参照」の結果たどりついた唯一無二の結論は、「平井にある底樋から、祇園用水の水を倉安川に取り込む」ことでした。

幸いにして底樋では、祇園用水と倉安川が立体交差していて、樋門を開放するだけで容易に祇園用水を倉安川に取り込むことができることに一縷の望みを託し、「楽しむ会」の主力メンバーと学区の関係者が相集って中区役所を訪れ、農林水産振興課長に対し、「ぜひともこの方法での通水試験を実現してもらいたい」と請願にこれ努めたのです。 時に平成21年9月29日のことでした。

水利権や既得権もこれあり、祇園用水下流域や三番用水の恩恵に浴している人々の理解と合意の取り付け、同時に倉安川の樋門管理者の方々の協力要請等々、各般にわたる岡山市当局の調整・交渉の甲斐あって、「10月13日、午前8時から通水試験開始」が実現したのでした。

祇園用水から倉安川への通水樋門
平井5丁目の“底樋”。
向かって右が祇園用水のサイホンの出口、左が倉安川との通水樋門。
祇園用水の水が、波頭を立てながら倉安川へ流れ込んでいる。
このとき樋門は全開、祇園用水本流の水位は一気に17センチ下がった。

いよいよ通水試験の当日、定刻5分前の7時55分に底樋の祇園用水から倉安川に通じる樋門が全開され、澄み切った水が小躍りして倉安川へと注ぎ込まれました。

富山学区内では、あらかじめ打合せした測定点に實村代表以下4名の会員と笠原連合町内会副会長も加わって配備し、15分置きに水位の変化を観測した結果、当然のことながら西から順次水位が漸増し、水面に浮かべた「浮き」も西から東へと水の流れを雄弁に物語っており、通水始点で投入した浮きが終端の柾木に流れ着いたのは午後4時20分でした。

各所の水深の変化の状況は場所によって均一ではないものの、測定データによれば、例えば富山幼稚園のところでは正午時点で優に10センチは水位が上がっており、古老によれば「物心付いて以来初めて倉安川に冬水が流れた」ことは実に感動的で、後世に記念すべきできごとでした。

水が流れれば当然水質にも好影響がみられ、通水試験当日午前8時と正午時点での測定値を比較してみると、PH,COD,リン酸、硝酸とも明らかに改善されています。

水位測定中の会員 この通水試験には、「楽しむ会」はもとより、岡山市役所本庁の河川港湾課、中区役所農林水産振興課、建設課、それに倉安用水並びに祇園用水の農業水利土木員各数名が参加し、官民あげての歴史的通水試験ではありました。

いずれにせよ、山が動き、水は流れたのです。 加えて、市当局からは、「この通水は、樋門開放7センチで来年4月まで続ける」、また、「倉安川の改修工事期間中も、何らかの工法で流水の疎通を止めないようにする」との意向も示され、そうなると永年の悲願であった「一年中、楚々として流れる一級河川倉安川」が実現することになるのです。

その引き金役を演じた實村代表以下の「富山の自然を楽しむ会」の、故郷の景観と環境の改善に向けた着想と熱誠が行政を動かしたことは確かで、その行動力と成果は高く称揚されるべきものと考えます。

    

【参考】

「祇園用水の水を倉安川へ」・・・、その祇園用水について、少し触れておきましょう。

旭川のはるか上流、岡山市牟佐(新大原橋の上流、山陽自動車道の鉄橋近く)にある合同堰が祇園用水の源流です。

ここで取水された旭川の清流はやがて西川や枝川となりますが、一方玉柏地内で分かれた水路は旭川を地下サイホンで潜り、祇園地内を流れて再び百間川サイホンを経由、途中「祇園用水〜地蔵川〜三番用水」と名を変えながら児島湾に注ぐのがこの祇園用水です。

旭川の上流が水源ですから水質はきわめて清冽で、その水の一部が倉安川に取り入れられることになったのです。

(文:小野田、写真:實村・中村)

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(4) 倉安川年表

倉安川に関する年表は、次のリンク先にあります。

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2 百間川

(1) 古書にみる百間川

この川は、藩主池田光政が岡山城下の出水を緩和する目的で、藩臣熊沢蕃山の提案をいれ、旭川旧河道を利用して開墾したもので、上道郡西北の中島に堤を築き、これより東南に向けて澤田地区〜操山北麓沿いに東走〜米田にて南に曲がり〜可知〜富山〜光政〜操陽等の村境を経て砂川を併合し、沖田〜津田間を東南に流れて児島湾に至る。

河と児島湾と相接するところに水門を設け、樋をもって河海雨水の節調をしている。

この流程は3里あり、河幅は100間あって、これが「百間川」の名称の所以である。

竣工は寛文9年(1669年)といわれ、また一説では貞享3年(1686年)とも言われる。

伝承によれば、旭川が増水し、水位が京橋付近の西側(右岸)の石崖であと二段のところまで迫ると中島の堰堤を開き、濁流を南海に流出することになっているという。

したがって、中島の堰堤はたった二条の堤防が築いてあるのみで、平常時はこの河には水はなく、一面の普通の稲田になっている。

旭川の現在の河口は甚だ浅く、上流より流下した土砂が多く堆積し、満潮時は26尺、干潮時には20尺という状況だから船の航行には大そう不便で、汽船はみな河口の外に停泊して、貨物は三蟠港まで小船で運び、汽車で岡山市へ運搬するか、又は、吃水線の浅い和船に積み替えて旭川を遡らざるを得なかった。

このように、百間川は船の航行には益するところはなかったが、平常時この河床には高島村祇園の北方より灌漑用水が引かれ、高島、宇野、財田、古都、可知の村々の田園を潤し、農業上大いに恩恵をもたらしている。

出典:上道郡教育会編 沼田頼輔校閲「上道郡誌」より(口語訳)転載

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(2) 築造300年記念碑

百間川左岸の海吉橋東詰付近の広場に「百間川築造300年記念碑」がある。

百間川築造300年記念碑
百間川築造300年記念碑

ここは、東区中川町に接してはいるが岡山市中区海吉地先となっていて、行政区画上は富山学区である。(案内図参照)

記念碑遠景(海吉橋東詰めより望む)
記念碑遠景
百間川築造300年記念碑所在案内図
百間川築造300年記念碑所在案内図

記念碑の建立趣旨及び時期等については、転書した碑文(↓)をご覧いただきたい。

記念碑背面にある銅板の碑文
記念碑背面にある銅板の碑文(写真)
記念碑背面にある銅板の碑文

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(3) 百間川右岸河川敷
百間川右岸河川敷
(←西)富山学区    南(下流)から北(上流)を望む

富山学区の東端を南北に流れる百間川。この川は承応年間に岡山城下町を襲った未曾有の大洪水を契機に、今から約330年前に津田永忠により掘削されたと云われています。

富山学区のある右岸の河川敷には“ランニング道・遊歩道”が整備され、また植栽やベンチ、簡易トイレなども設置され市民の憩いの場となっています。

水面に羽を休める水鳥や周囲の山々(笠井山・正木山や芥子山など)を眺め、季節の風を感じ散策するのには絶好の場所です。

(文・写真:横地)

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(4) Webにみる百間川

「百間川」で検索してみましょう。(別ウィンドウが開きます)

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