3.唐人塚                                             案内トップへ戻る

場 所   岡山市賞田 賞田墓地登り口横

行き方   宇野バス四御神行「脇田」下車、用水路べりを西へ徒歩5分

説 明

龍の口山の西南の麓に位置し、横穴式石室に竜山石(兵庫県高砂市竜山・凝灰岩)の刳抜型石棺の身のみが遺存してる。築造年代は、6世紀末から7世紀前葉と推定される。

その石棺の大きさは、外径の長さ2.22m、幅1.18m、高さ0.94mを計り、近辺では牟佐大塚古墳(井原市の浪形石・貝殻凝灰岩・6世紀末と推定)に次いでの大型石棺(刳抜式家形石棺)である。

ちなみにこの竜山石製の同類の石棺は、岡山県立博物館の入口前に移転展示されている、朱千駄古墳出土の組み合わせ式長持形石棺(5世紀中葉)と北浦八幡大塚古墳出土の組み合わせ式家型石棺(6世紀末)と同じ石材のようである。

『旧高島村史』に記す、「明治38年、清野博士の発表せる論文」によると、「古老の言によれば、これより去ること80年ばかり前の事に、この上の畑で空洞のような音がするので掘ってみると石槨を発見したが、すでに過去に盗掘されていて何等の副葬品も存在しなかった。石棺は西北の端と東南の端が数寸の大きさ欠けて居た。そしてその当時、岡山城主池田侯が足軽百人ばかりを送って此の石棺の蓋を持ち去ろうとした。いずれの地に此の石棺蓋を置かんとしたかは不明であるが、或いは後楽園であったかも知れない。とにかく此の足軽達は数日の労力を使って旭川の堤まで運んだ時に、不幸にも大雨があって石棺の蓋は河の中に滑り込み爾来今日まで何処にあるか詳らかでない。」と記している。

この唐人塚から、すぐ東に茶臼山という小山があるが、ここにも既に破壊されてしまった石室の穴が認められる。そして、その東の山裾に「賞田廃寺址」が確認されているが、古墳時代が終わって飛鳥・白鳳時代に入って、いち早く寺院建築に進展していった上道氏の勢力の存在を考えることが出来るかも知れない。

(高島新屋敷 杉本義和)

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