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<第2回> 「岡山市玉柏 宮本地区 の 風土記」 平成17年3月1日 |
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宮本は岡山市の北東部で、牧山方から山あいを南へ流れていた旭川が東へ向かい、更に大きく南から西へ流れを変えて、やや開けた平野部に望むところで、津山線・玉柏駅の東から北の山裾にかけた位置にあります。
北に古墳と言われる「たいしょうじ」山を背負い、南に龍ノ口山に連なる龍ノ口八幡宮を望み、東と南に清流旭川、空気はきれいで水は清らか、まさに「山紫水明」の地だと自負しています。
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宮本地区およびその周辺
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1.玉柏村・枝村宮本村
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「牧石村誌」(昭和6年・1,931年)によると、岡山市へ合併前の「牧石村は明治22年6月1日牧石村と改称し、旧村を以て大字とする。その大字は玉柏、金山寺、畑鮎、原、中原の5大字とし、就中玉柏は宮本、河本、平瀬の3村を、畑鮎は鮎帰、畑の2村を合併して大字となしたり。」とあります。
旧牧石村の町内会は、金山寺、原、中原が大字で、玉柏は宮本、河本、平瀬に大原、畑鮎は畑、鮎帰が小字として単位町内会が組織されているのは、徳川時代以前からの組織に因るのではないかと思われます。
岡山市合併前の牧石村 「牧石村誌」による
郷庄保及古名 |
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藩時代村名 |
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明治8年12月27日 |
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明治22年6月1日 |
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大正10年2月1日 |
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(1875年) |
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(1889年) |
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(1921年) |
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宮本村 |
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牧石郷 |
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河本村 |
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玉柏村 |
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平瀬邑 |
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畑 邑 |
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畑鮎村 |
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鮎帰村 |
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牧石村 |
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金山寺邑 |
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金山寺村 |
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中原村 |
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中原村 |
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牧石村 |
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原 邑 |
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原 村 |
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三野郷 |
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宿 邑 |
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宿 村 |
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三野村 |
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三野村 |
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三野村 |
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岡山市 |
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(北方村・南方村) |
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2.宮本の昔・今
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「宮本」の地名がどの時代から呼ばれ、どんな謂われがあるのか不明です。
又この地方へ人々がどこから来て、どのような生活をしていたかは、付近に貝塚もなく、縄文式とか弥生式といわれる土器も発掘されていないので分かりませんが、山陽町の両宮山古墳が5世紀後半(約1,500年前)の築造、牟佐大塚古墳が6世紀末(約1,400年前)の築造とされており、当時既にこの地方には大きな力をもった人が住んでいたと思われますが、記録として残るのは徳川時代になってからではないでしょうか?
小さいながらも宮本にも横穴式石室をもった古墳がありますが、遺物はありません。(巾2.3m 高さ2.0m 奥行き6.5m)
岡山藩士の石丸定良が編纂した「備陽記」(亨保6年・1,721年)によると、約300年前の宮本は「枝村宮本の村高は田畑20町6反2畝、家数31軒、人口220人」と記されています。
この家数は昭和20年(1,945年)の終戦のころまでは続いていましたが現在は家数74軒と約2.4倍となっていますが、人口は247人で約1.1倍にしか増加していません。
高齢化にも拘わらず核家族化や少子化の影響でしょう。
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横穴式古墳 |
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3.神社、仏閣
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(1) 宮本八幡宮 |
宮本八幡宮
僧、行教の墓
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祭神 |
仲哀天皇 |
(第14代天皇) |
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応神天皇 |
(第15代天皇) |
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神功皇后 |
(仲哀天皇の皇后、応神天皇の生母) |
このお宮の創建年代は「牧石村誌」にある僧、行教の勧請に因るとすると約1,150年前で、「寛文元年(1,661年)に再建され、明治33年(1,900年)に火災により焼失し、翌年の34年に再建されました。
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秋祭り(秋祭りは従来11、12日でしたが、体育の日の制定により未定) |
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嘉永6年(1,853年)氏子寄進(銘窯元あり) |
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どこからか移築されたと伝えられています。 |
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天保14年(1,843年)氏子寄進 |
山の中腹にあるため花崗岩の石段が70段あります。
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*僧、行教の墓
八幡宮の境内にあり、「牧石村誌」によると「現時小松林にありて手入れせし形跡なし、又何らの銘なし、行教は当社を勧請せしを以ってその死所は当地ならざるもその墓を建てしならんか。
行教は清和天皇貞観元年(859年)山城男山八幡宮を宇佐より勧請せし僧なり。」と記録されています。
(参考) 空海(弘法大師)没(承和2年・835年)24年後の時代
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(2) 野神さん |
宮本八幡宮から東へ小路で、津山線を挟んだ小山の中腹に祠があり、「昔この辺りでは川の水を利用していたが、疫病がはやることがあった。
川の中から一抱えもある石を取り出して祭ったところ、疫病が治まったのでその石を祭った。」という言い伝えがあります。
例祭 4月23日 春祭り
付近に「権現さん」という小さな祠もあります。
又すぐ下の山腹には「つか」と呼ばれた這って入れる位の穴があり、人骨や刀があったそうです。
私も潜りこんだこともあり子供の遊び場でしたが、今は雑木が大きくなって潰れてしまってわかりません。
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野神さん |
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(3) 地 蔵 |
お地蔵さん
北向きのお地蔵さん
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畑の中にあり、周囲は土塀でしたが戦後にブロック塀に改築しました。
石 碑
南無阿弥陀仏
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寛保2年(1,742年)の銘があります。 |
お地蔵さん |
石造り |
灯 篭 |
石造り 天保5年(1,834年) |
「モク」の木 |
経年不詳 建造当時と思われる巨木 |
「楓」の木 |
秋山新八郎さんの日露戦争従軍凱旋記念植樹(金鵄勲章受賞) 明治38年(1,905年) |
例祭 昭和15年頃までは1年に1度、子供会を中心に村の人も大勢お参りして「お接待」もありましたが、今はお年寄りがお参りしています。
信安さんの宅地内に「北向きのお地蔵さん」があります。
明治のころ山本秀晏さんのご先祖が、お地蔵さんと石碑を背負って帰られお祭りをしたと伝えられており、「本山神社」と書かれた屋根のついた小さな石碑と並んでいます。
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(4) 龍田寺(りゅうでんじ) |
河本にある上興院の前身で、金川城主、松田氏の攻撃に会い火災の為焼失したそうですが、合同用水の山側に龍田寺という田、南側に大門(だいもん)と言う畠等の地名が残っています。
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「牧石村誌」「備陽記」を参考に一部を引用させて戴き、私見を加えていますので誤りがありましたらご教示ください。 |
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