調査概要

前書き・遷座について

前書き

 本調査は、坪井慈朗(岡山市北区撫川在住)が、平成31年2月から3月にかけて実地検分したものである。その後随時調査を継続し、移動や改修等のあったものも都度改訂を加えている。(最終調査:令和3年6月)
 調査にあたっては、昭和56年発行の「地場大師八十八カ所調査報告書」(岡山市大内田周辺民族文化財調査委員会(昭和55年2月組織・編集発行)をもとに、実際に現地を歩いて所在を確認した。


地場大師八十八箇所について

 「地場大師八十八箇所」は、約220年前の江戸時代のころ、四国巡礼から帰った人たちが、その感激と信仰を地元でも再現しようとして始まったと言われています。
 当地の遍路道は、本場の四国巡礼を地元の集落「大内田(讃岐)」「妹尾崎(阿波)」「坪井(土佐)」「矢尾(伊予)」にそれぞれなぞらえている。
 88カ所と言うが、実際には110の祠があり、奥ノ院やダブり、不明なものもある。また調査報告書には記載の無い、個人的に建てられたらしきものも確認でき、それらは「番外」として記録した。
 ダブりについては地元住民の話によると、旧い札所を新しく立て直したものの、旧いものを廃棄するのも忍びないのでそのままに残置した、という説もある。
 ※表中「地図番」で表示したのは、当時の調査報告書の管理番号であり、実際の札所の番号とは異なるのでご注意。


調査の所感

 札所のほぼすべては祠堂に収まり、多くはブロックづくりであるが、昔ながらの瓦葺きの木造や、石板を組んだもの、煉瓦づくりのものまであり、それぞれの時代に改修等が行われて大事に残されている。しかし一部には傾いて崩れそうなものもあった。
 また置かれている場所も、道のそばはもとより、寺社の境内、民家の塀の一角にあるなど、住民が懸命に残そうとした気持ちが忍ばれる。
 さらに感心したのは、江戸時代からの札所が一つも欠けることなく現在まで残されていたことである。しかもどんな山奥の祠堂にも、今なお地元のどなたかの手による生花が供えられており、周囲は常に掃き清められていることである。いかに地域の人々に大切にされているかを感じた。
【実際の世話人(早島町矢尾在住の女性)のお話】
 「私は67〜69番を自主的にお世話しています。62番は他の誰かがしてるみたいです。今すぐそばが開発中で、いつ撤去されるか心配。市役所にも陳情してるんだけど、どうしようもないと言われています」

遷座について

 昭和52年ごろから、遍路道の一部が「岡山県総合流通センター」として造成・開発されることになり、札所のいくつかの存続が危ぶまれた時期があった。そのとき大内田千手寺の第29代住職 松本文秀を総代理世話人とする信者らが岡山県と交渉し、撤去されそうになった札所をまとめて移転することを成し遂げた。
 遷座したのは管理番号49〜59の14基で、流通センターの運輸団地入り口バス停から西に入って墓地(寿光園)につながる細道に沿って並べられている。そのうちの第44番札所(管理番号59)だけは、流通センターの塚山公園の入口近傍にあり、遷座経緯の記念碑が昭和62年に建造されている。


千手寺第30代住職 松本宜秀氏のお話し

 「流通センター開発による遷座の後も、昭和60年半ばごろまで毎年2〜3回、当寺が中心となり周辺集落の人たちによる地場大師参りが行われていました。現在はそうした巡礼も絶えてしまいましたが、残された札所が今なお地域の人々に大切にされているとのこと、信仰の篤さを感じます」