中学生がフィールドワークにやってきた

操南中学校1年生の総合学習「地域の歴史を知る」の一環として学校を出て実際に現地へ行き説明を聞くフィールドワークが5月10日(金)に行われました。広い操南中学校区を7つのコースに分け、操明学区には東西2つのコースが設定されていました。どちらのコースも中学校から片道4km近くあり、旭川・百間川堤防を南下し児島湾堤防を通ると今から340年前に津田永忠が行った壮大な事業が実感できたと思います。             

西コースは旭川堤防を南下し明治天皇上陸記念碑を目指す 児島湾堤防を通り三番用水を北上して帰るコースで59名の生徒がやって来ました。ガイド役は萩原が担当。

旭川堤防沿いにある江並道通宮に立ち寄る

明治35年頃流行した疫病(コレラ)退散のために創建

今から139年前(明治18年)この地に明治天皇が来られた記念碑です。

当時の天皇は現人神(あらひとがみ)として崇められ人々は感激してお迎えしました。

何のために、なぜこの地に来られたのか生徒からの質問です。明治の代になって世の中の暮らしや官民の様子を視察するため西日本各地を巡幸される途にあり、山口、広島を経由し岡山に来られました。ここには幕末頃から海の玄関と呼ばれた三蟠港があり、鉄道が無かった当時主要な交通手段だった船でこの地にこられたのです。記念碑が立っている場所は岡山水上警察本所があった場所で隣には山長旅館、船客を運ぶ人力車が百台近く岡山まで行き来し往時は大変賑わっていたそうです。

石碑には伊藤博文ら随行者の名前が記されています

ここに三蟠港があったのか、明治天皇が岡山での最初の一歩がここだったんだね。

児島湾堤防沿いを帰ると恵比寿宮・竜王宮があるよ

海岸近くだから恵比寿宮(豊漁の神)や竜王宮(海難を防ぐ神)を大切にしてきたのかな

ここ(操明小前)では土地のお年寄りが説明してくれました。

藤崎の三蟠用水沿いに地神様・木野山様・お地蔵様が並んであります。

                     

操明東コースは百間川堤防を南下し左前方に沖田姫の人柱伝説が残る水門を見る。海沿い堤防を西に進むと大きな遊水池(四番川)が土手下に見える。大用水を北上して帰るコースで、53名の生徒達が来ました。ガイド役は瀬崎さん。

大用水を南下して来た生徒

百間川から海沿いを来た生徒達

両方が合流しました。交通量が多いので事故のないよう自転車を整理よく止めましょう。

提防内側に見えるのが四番川遊水池です。沖新田の用排水をここに集め児島湾の水位が下がる干潮時に放流する溜升(ためます)の役割をしています。

こちらは潮廻しといって海側から沁み込んでくる海水と上流から流れ込んでくる用排水を併せて四番川に送り込むため堤防沿いにあります。

四番川も潮廻しの工夫も340年前の干拓工事当時からあり津田永忠の才覚がこの大事業を成功させたのです。

四番川の西沿いを帰ると竜神様があります。竜神は海中に住み新田開発の堤防工事の際に竜神の怒りを鎮めるため沖田姫が人柱に立ったと伝えられています。

竜神は雲を呼び雨を降らすとされ、雨ごいの神であり稲作の守護神です。昔の人は日照りが続くとしばしば御祈祷したことでしょう。

大用水を北上する帰途に、今では珍しくなったかうぇーちがあります。水道が無かった時代、どこの家でも水汲みや洗い物をするためよく利用されていました。

四番川(遊水池)左手奥に岡山市消防訓練センター、右手奥に芥子山(備前富士)を望む。百間川東手にも同じ遊水池の六番川があり干拓地にあって特異な景観となっている。

               

(写真 細野・松井  文責 萩原  構成 瀬崎)

                

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