山羽虎夫の胸像京橋へ
昭和29年に岡山城のお堀端(県立図書館北側)に建立されていた山羽虎夫氏の胸像が69年ぶりに京橋北に移転し、5月2日(火)に除幕式が行われました。1年前に山羽式蒸気自動車のレプリカを製作し三蟠港までパレードして来た岡山商大附属高校自動車科 を迎えた際に面識のできた蜂谷科長から連絡を頂き出向きました。式には名古屋市から来られたという虎夫氏のひ孫にあたる山羽真二氏をはじめ関係者の方達もお出ででした。国産初となる蒸気自動車の製作を山羽虎夫氏に依頼したのが三蟠港近くで材木商を営んでいた楠健太郎と呉服商の森房造で、私の祖父の弟と妹婿の義兄弟です。二人は1903(明治36)年大阪で開催された第5回内国勧業博覧会で見た輸入自動車を使って岡山と高梁間の乗合自動車を計画しましたが高価すぎて諦め、腕がいいと評判で電機工場を営む山羽虎夫氏に製造を依頼しました。大変な苦労があったようですが1904(明治37)年5月7日には試運転で工場があった天瀬から京橋を渡り旭川土手を約10キロ、途中何度か不具合もありましたが発注者らが待つ三蟠港まで走り切ったようです。日本初の純国産自動車で、ドイツのダイムラーとベンツの二人が世界初のガソリン自動車を製作した1886(明治19)年から18年後のことです。自動車大国日本の端緒を開き後のトヨタをはじめ国内企業の自動車製造への先駆けとなりました。今回山羽氏の胸像が移転されたすぐ近くにはアメリカのライト兄弟より110年以上も前の1785(天明5)年、世界で最も早く、京橋の上から比翼をつけて空を飛んだ鳥人(浮田)幸吉の石碑があります。江戸と明治、空と陸の違いはありますが京橋に縁のある岡山が誇る二人の先覚者の記念碑が京橋朝市会場前に並ぶ光景が見れるのはうれしいことです。
右手に山羽虎夫氏のひ孫さんはじめ関係者の方と後は岡山商大附属高の自動車科の皆さんと記念写真
大木を挟んで左に幸吉の碑、右手に山羽氏の象 京橋から胸像のある旭川土手の遊歩道を望む
※ 昨年5月4日のホームページに「山羽式蒸気自動車アプリカがやってくる」、
同じ5月12日に「山羽式蒸気自動車がやって来た」があります。青文字の部分をクリック(タップ)すれば該当ページが開きます。
写真と文 萩原正彦