操明懐かしの写真館(第28回)

農村風景

                 

今回は、かってこの地方が市内有数の穀倉地帯だった様子がうかがえる写真2枚を、お二人の方から提供頂きましたので投稿します。

1968(昭和43)年稲刈り後の田園風景。百間川堤防近くの沖元から操山方面を望む。この当時は鎌で手刈りされた稲束を脱穀した後、円形もしくは長方形のわらぐろにして製紙の原料や藁製品の材料、家畜飼料に売却したり、台所や風呂焚きの燃料など多目的に利用されていた。この数年後にはコンバインが普及し始めて稲を刈り取り・脱穀・切断までするようになったので写真のような風景はこの頃を最後に見られなくなった。 

                
        

1945(昭和20)年秋 米の供出風景 この年の8月日本は敗戦 戦地から復員してきた人々もいたが混乱の中、農地を守って来たのは婦女子や年老いた人達だった。戦時中から米は国の統制下にあり農家には強制的に供出量が割り当てられ、消費者は米穀手帳を配られ配給制で米を売る店も価格も国が決めていた。終戦後はヤミ米も見られ高値で取引されていたようだ。写真で見られるように農家で作った米俵に一俵(60Kg)入れて出していた。のちに麻袋となったがいづれにしても大変重かったが現在は30Kg入りの紙袋で出荷している。写真の撮影場所は江崎の宮道沿いの旧三蟠農協の倉庫があった場所ではないかと思われる。

                   
文責  萩原正彦

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