懐かしの写真館(第24回)

操南中学校(その4)

                

今回は昭和52年から61年までの10年間を見てみます。昭和54年には富山小から旭操小が分離したので、操南中は3小学校区となり生徒数も急増、校舎も木造平屋建てから鉄筋4階建てに5期工事に分けて現在の形にとなっていった。
手狭になっていた学校用地も隣接農地の買収により拡幅出来、58年3月には懸案だった広い運動場が完成した。
生徒増と相まって部活動も活発となり県内強豪校となる部も増えてきた。
50年代後半には教室不足にプレハブ校舎で対応していたが、富山中を新設し分離する前年の60年には3年生12クラス全校で36クラス1565人となり、岡北中などと並び市内有数のマンモス校となっていた。
この頃には教師や生徒に対する校内暴力や風紀の乱れといった噂を耳にするような事もあり、学校運営の上からも大変な時期だったと思います。生徒数の多さの良い面と悪い面もでたのでしょうか。
もっとも、当時の風潮として荒れた学校は少なからずあるとも聞かされていました。
この当時の先生方は本当にご苦労様でした。


             

昭和52年 交通巡視員や警察官の誘導で登校する自転車通学の生徒達

プレハブ2教室が建設される

昭和53年当時の教職員 前列右から8人目は11代原田元衛校長(昭53~55年度)3年生は6クラス
                   

陸上部員と神崎先生

卓球部員と竹内先生

これまでのクラブ発表会がこの年から文化祭となる

ステージ発表

昭和54年 県大会で優勝し中国大会出場のバスケットボール部員と衣笠先生

同じく県大会優勝し全国大会出場のハンドボール部員と片山先生

運動会の入場行進

声援を送る父兄の皆さん

昭和55年 体育授業でバレーボールの男子

同年の運動会 今では見られなくなった騎馬戦の女子 

昭和56年教職員前列中央は12代岸 康男校長

同年運動会の開会式で選手宣誓

弁論大会

大山登山

昭和57年 野外活動で玉野レクレーションセンターに

同キャンプファイヤー

昭和58年教職員 中央は13代矢木幸一郎校長(昭57~58年度)3年生は11クラス
                           

ハンドボール部男子は中国大会優勝 全国大会3位に

同じく女子も県代表で中国大会出場右は片山先生

バスケットボール部女子も県代表で中国大会に衣笠先生と

美術部員と山本先生

前年3月完成の運動場落成記念・秋季運動会s58.9.24
校舎北に待望の広い運動場が完成し部活や体育授業が思い切り出来るようになった。

会場一杯に広がりフォークダンスを踊る。

昭和59年 校長室で生徒に囲まれ笑顔の渡辺校長

文化祭の作品制作中

作品の出来栄えを披露

バンド演奏で大盛り上がり

昭和60年教職員 前列中央は14代渡辺孝夫校長(昭59~61年度)富山中分離前でこの年3年生12クラスと最多の年度。教職員の人数に圧倒される。学校も大変な時期で校長先生はじめ先生方にはご苦労さまでした。
                    

購買では学用品や制服や体操服など売っていた。

図書室での読書風景

科学部員と近藤先生

合唱部員と音楽の宮本先生

校庭にはプレハブ校舎が立ち並ぶ

60年3月26日 富山中との分離のためのお別れ式左手
には記念樹が用意されている。

昭和61年空から見ると校舎北に完成の広い運動場がよく分かる。

同年の運動会で長縄跳びの女子 全員揃うのは難しい

大山登山は懐かしい思い出になった。

文化祭でコーラスのクラス発表 練習の成果を競う。

文責 萩原正彦

                  

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