操明懐かしの写真館(第23回)

操南中学校(その3)

今回は昭和42年から51年までの10年間をみてみます。昭和39年の東京オリンピックを経て日本経済も大きく飛躍、同45年には大阪万博が開かれるなど明るい話題の一方、大学紛争も頻発し一部の若者たちが現状に不満を持ち政治的信条から教育現場に介入し荒れた時期もありました。
昭和40年代の中学校ではそれまで見受けられた愛のむち(良くも悪くも今でいえば体罰)、男子生徒の丸刈りから長髪許可といった戦前から続く慣習や校則が見直されていった時代でもありました。個人の尊厳や自主性が尊重されてきたともいえるでしょう。そのことが真の教育にとって良かったかどうかは個々人の考えにゆだねられますが、時代の流れであったことは確かです。
大山登山が希望者から全員参加になる他、学年ごとの野外活動や研修、課外クラブ(部活動)とは別に必修クラブが正課として始まるなど学校活動が多様化、活発化してきました。
また体育館が出来て屋内での式典・文化行事やスポーツ振興に大いに役立ったこと、木造校舎から徐々に近代的な鉄筋校舎に変わり、生徒増でプレハブ校舎が建設され始めた時代でもあります。
 

               

昭和42年夏の蒜山キャンプ

同年運動会の入場行進

昭和43年当時の教職員 中央は8代校長の広江利夫先生(昭43~45年)で左隣は妹尾教頭 前列は3年生の担任団で当時は4クラスあった。
                     

3年A組と内藤先生

生徒会立会演説会

庭球部員と村田先生

英語部員 学問に近道なしと書かれている。

昭和44年サッカー部員と衣笠先生 全国大会出場の操南スポ少サッカーのメンバーが主力だった。

バレーボール部員と片山先生 当時は運動場が狭くて屋外で練習するクラブの中には陸上部は宮道を走ったり、サッカーは内山工業のグランドを借りたりしていた。

昭和45年3月待望の体育館が完成

昭44年度の卒業式 前年まで小学校の講堂を借りていたが以後は入・卒業式は自校で出来るようになった。
この年の3年生が体育館を使うのは卒業式だけだった。

昭和45年6月大阪万博を見学

同年の庭球部員

運動会を盛り上げるブラスバンド部

応援にも力が入る

修学旅行 熊本県阿蘇山

同長崎平和祈念広場

昭和46年 校庭キャンプ

先生からカレーライスをよそってもらう。

昭和47年の教職員 前列左から4人目は坪井隆二9代目校長(昭46~47)

             

昭和48年 クラブ発表会に」向けて練習風景

同年3年生のクラス写真 この年1月8日(前年度3学期)
男子生徒の長髪が許可されて、これまでの丸刈りが当たり前のイメージから一新した写真。

昭和49年 男子生徒全員が長髪で、ある意味で時代が変わった感がある。

校庭キャンプ風景

昭和50年教職員 中央は河本斉10代校長(昭48~52年) 右隣は森安教頭 
                    

同年運動会3年男子入場

3年B組フォークダンス

昭49年 2年生大山登山

夜のレクリエーションに先生も飛び入り参加

昭和50年 3年生秋の遠足で高島へ

ハゼ釣りを楽しむ 対岸は児島半島のやまなみ

必須クラブのフィッシングクラブ 針の結び方の練習かな。

昭和51年 同じくフォークソングクラブ 人気があったのか選択した生徒が多いですね。

野球部員と井本先生

ハンドボール部員と片山先生 先生は前年(50年)に着任後、ハンドボール部を創部し翌51年には同部を全国大会に出場させるなど11年間にわたり同部を指導し県内屈指の強豪校に導いた。

                   

文責  萩原正彦

              

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