操明懐かしの写真館(第22回)
操南中学校の歩み(その2)
前回は中学校誕生の昭和22年から同31年までの10年間を見てきたので、今回は同32年から41年までの10年間を振り返ってみます。
この時代の前半は戦時中に生まれた世代、そして戦後の第一次ベビーブームの団塊世代(昭22年~24年生まれ)が続き生徒数が急増した時代だった。中卒で就職する生徒は「金の卵」と呼ばれもてはやされたが、大半は高校進学を希望したために県立高校の新設が続いた。
昭和37年には東岡山工業高校が誕生し岡工と東西2工業校体制に、翌38年には岡山大安寺高校が出来て朝日、操山と普通科3校の総合選抜制となり進学希望者のニーズに対応した。
中学校も3年生になると高校受験に向けて父兄の要望で、正規授業に加え補習授業が行われ学力向上が図られた。
昭和33年から給食が始まっていたので土曜日には希望者にうどんが用意されていて、これが大変美味しかった思い出がある。
田舎の学校の為に塾や家庭教師も身近になかったので、時間外に補習授業で応援して下さった先生方や給食のおばさんたちにはお世話になりました。。
元気盛りの中学校生活で勉強と並行してのクラブ活動やスキー、キャンプ、運動会、遠足、修学旅行、文化祭等思い出はたくさんあります。
卒業して幾星霜、恩師や同窓生の訃報も耳にするようになり、記憶もだんだん薄れていきますが人世で最も多感な青春時代のひとコマを懐かしい写真で振り返ってみます。
昭和32年の運動会で証城寺の狸ばやしの仮装行列
男子は小僧さん、女子は狸で和尚さんは前田幹先生
昭和32年12月に完成の給食室(中央の白い建物)
弁当持参の不便さが解消され温かく美味しくて栄養にも配慮された給食は学校生活の楽しみでもあった。
調理場風景
生徒の後ろには給食用の木村屋のパンの配送車
昭和34年完成の図書館での授業風景
学芸会の衣裳の生徒達 何を演じたのでしょう。
4代校長の玉光 首先生(昭33~36年度)
昭和34,5年頃の修学旅行で場所は伊勢ではないかと思うがどうでしょう。分かれば教えてください。
昭和36年当時の教職員の方々。玉光校長以下懐かしい顔ぶれですがご健在でしょうか。
この頃から始まった夏休みの蒜山キャンプ
夏休みには水泳の記録会や大会があった
理科室での授業風景
休み時間は運動場でドッジボールやバレーボールなどで遊んでいた。
オクラホマミキサーの曲にのって踊るフォークダンスは運動会の懐かしい思い出。
生徒会の中央役員と安井先生
文芸部員と平井先生
体操部員と藤原先生
昭和37年3月卒業式(操南小の講堂)手前は来賓席で奥側の壁に歴代の村長の写真が掛けられていた。
昭和37年 給食風景、月間の献立表が配布されていて好きな献立の日は給食が楽しみだった。
陸上部員と前列右端は池先生で先生はハードル競技で国体出場しており、陸上部のレベルアップに尽力された。
昭和38年当時の教職員 中央は石村 和5代校長(昭37~38年)
昭和39年の水泳部員でこの年県大会で完全優勝(全種目制覇)し全国大会に出場した。
前列左端は6代目塩飽校長、後列右端は大沢先生で学生時代から背泳選手として活躍していた。
天体クラブと景山先生
昭和40年 ブラスバンド部
水泳大会
希望者が参加していた蒜山スキー
昭和41年3月卒業式 中学校にはまだ体育館が無かったので小学校の講堂で行われていた。在校生の拍手とブラスバンドに送られて会場を後にした。後方には和服姿の父兄が続く。
文責 萩原正彦
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