操明懐かしの写真館(第16回)
戦後婦人会の歩み(その3)
戦後の婦人のあゆみで中核を担ってきた婦人会ですが、特に岡山市に編入された昭和27年以降はその役割も多岐に亘ってきたため、昭和36年に愛育部門を分離し三蟠愛育委員会を発足し、4代目婦人会長だった片岡真佐美さんが会長に就任。以後も婦人会長が兼務することに。
昭和40年に5代目婦人会長に就任した斎藤廸子(みちこ)さんは昭和42年に結成された三蟠沖田交通安全母の会の会長も兼務することに。
昭和44年に6代目婦人会長に就任した斎藤恵子さんは同45年に結成された三蟠地区交通安全母の会の会長に就任。
後に同会長は小川希巳子さんが引き継ぐことに。
昭和57年には三蟠婦人防火クラブが結成され同会も斎藤恵子さんが会長を兼務
昭和21年の婦人会結成から実に50年大きな足跡を残してきた婦人会でしたが、平成8年操南小から操明学区が分離することになり三蟠婦人会(同様に沖田婦人会)は解散しその歴史を終える事になる。
その後は操明学区では婦人会結成の機運はあったが結成に至らず、操南学区では名称を女性クラブとして活動していたが令和2年度をもって解散し、メンバーは愛育委員会と一緒に活動すると聞く。
時代の流れか、役員の成り手が少なくなってきたのが残念で在りし日の先人たちの活動に感謝と敬意を表したい。
ふれあいセンターで健康教育受付の三蟠地区愛育委員(右から二人目は現操明学区愛育委の浮田博子会長)
愛育委員会会長も兼務していた斎藤恵子婦人会長
昭和47年 栄養教室に参加の皆さん
料理コンクールで銅賞の三蟠祭ずし(右後)
ふれあいセンター広場でチラシを配る交通安全母の会の皆さん
三蟠学区運動会で交通安全の呼びかけを行う(左から二人目は小川希巳子会長)
昭和57年12月1日、三蟠婦人防火クラブの結成式
市内17番目で52名のクラブ員(中電三蟠発電所)
平成6年 歳末特別警戒での斎藤恵子会長ら
消防団員から指導を受けて消火訓練を実施
婦人会解散前の皆さん 江並下地区
藤井さん宅での料理教室 下藤崎地区(10班の皆さん)
下藤崎地区9班の皆さん 林原生物化学研究所前で
平成8年5月19日 婦人会解散のお別れ旅行 岡山県美作市にあるベルビール自然公園(美作富士と呼ばれる日名倉山の中腹標高865mにある)にて
農協婦人部
戦後の混乱の中、農業の振興、農家の経営基盤の確立,助成をはかるために昭和22(1947)年に農業協同組合法が制定された。
農協(現JA)活動の中に農家の主婦の文化・教養を高め、併せて農協経営の支援にも当たってもらおうとして農協婦人部が設立された(現JA女性部)
食料品やチリ紙、洗剤等の生活物品(マーク品)、家の光・地上等書籍の販売や農協貯金・保険の勧誘や集金も地区別に役員が行っており農協にとっては心強い存在だったと思う。また子供、親子むけの料理教室も開いたり、野菜の販売など最近まで続けているものもある。
婦人会とは別組織ではあったが実態としては両会員になる人が多かったようだ。
今回は婦人部が中心となり、農協前庭で毎年開かれていた演芸大会の様子を何枚かの写真で見てみます。
舞台上に農協法制定10周年・肥料倉庫落成記念と書かれているので昭和32年と思われる。
仕切外西上組合(藤崎) この町内会は当時は13軒ほどだったが現在では100世帯を超えている。
演芸大会に向けての練習風景 場所は下藤崎で33年頃かと思われる。
祝婦人部10周年記念演芸大会とあり昭和33年か 後方は肥料倉庫で駐車場拡張のため現在は撤去されている。
昭和33年 合唱仕切外西上とプログラムにあり 舞台上に見える「家の光」「地上」は家の光協会(JAグループの出版・文化団体)が発行している月刊誌。家の光は大正14年、地上は昭和22年に創刊、現在も月一回発行されてる。
戦後婦人会のあゆみ3回シリーズでは平成10年3月発行の「三蟠婦人50年のあゆみ」から一部写真・記事を掲載、参照させて頂きました。大変有難く厚くお礼申し上げます。
文責 萩原正彦
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