歴史

太古から現在

日吉町は大野村の一部として昭和27年4月1日に岡山市に編入され、かつては北長瀬新屋敷と称したが昭和49年に改称された。

1.大昔

この辺りは太古の時代には海の底であったが、上流からの礫、砂、泥が堆積しだんだんと陸地化されたと思われる。奈良県大安寺流記資材帳によると、奈良大安寺の寺領となった大安寺のあたりがすでに奈良時代からよい土壌であったことが覗える。
北長瀬の開墾が完成を見るのは、白髭宮の創建が1176年であることや大安寺が奈良時代以前から開拓されていることからして、今から千年くらい前と考えられる。

北長瀬村は三野郡市久保【保とは平安時代の庄や郷と並んで末端の行政区画の一つ】と称していたこともあったが、太古この村が海底にあった時代、この村から西長瀬村に通じて瀬をなしていたことからこの村名が残された。
明治8年に辻村(北長瀬表町)と合併した。
明治22年北長瀬村、大安寺村、野田村、高柳村、野殿村の5村が合併し大野村となった。その時の北長瀬村の戸数は75戸であったので、そのうち日吉町は十数戸ほどであったと思われる。
日吉町の世帯数は昭和41年31戸、平成24年度の世帯数47戸、平成31年度世帯数63戸である。

日吉町内唯一の祖師堂は町内の南側山陽本線に接し西バイパス(国道180号線)の東にあり、祭祀は大覚大僧正と三十番神と題目日蓮大士である。

また、多くの町民の氏神様である白髭宮(北長瀬本町)は安元2年(1176年)に備前吉備津宮(吉備津彦神社)から勧請して御崎宮と称したが天和(てんな1681~1684)年間に改称した。祭神は猿田彦尊である。
また相殿は備前吉備津宮の分霊である御崎大明神と松尾大明神であり中仙道の白髭宮よりも225年前に創建されたものである。

2.近代

昭和30年代初期まで用水が交通路で、川舟(平舟)を竿で押して農機具を田んぼに運びそこで脱穀し、帰りには籾を運んでいた。用水に架かっている橋は舟が通れるように田んぼ道より高くなっていた。裏作として「ゆ(い草)」や麦を栽培し、い草から畳表を生産していた時期もあった。
川舟は子供たちの格好の遊びの道具でもあり、重陽の節句には笹が瀬川が褶曲してできた大川(沼)へ櫓を漕ぎ弁当持参で舟遊山をしたこともあった。
大川や灌漑用水路では鮒が取れすり身にして鮒飯を作っていた時期もあった。
大きな災害を被ったことはないが昭和30年代中ごろには床下浸水したこともあった。
昭和35年から昭和50年にかけて土地改良(圃場整備)事業が行われ、農地が耕作しやすいように長方形に、用水路や道路も碁盤の目のように整備された。
その当時大川も排水路からの栄養分や生活ごみによって悪臭がしていたがそれも埋め立てられ、その一部に大安寺高校校舎(北長瀬本町)が昭和40年5月に落成した。(開校は昭和38年4月)

昭和30年代中頃までは子供の遊ぶ広場もなく稲刈りをした後の田んぼや貨車操車場内で操作線と山陽本線の間で野球をしていた。
岡山西駅(岡山貨物ターミナル駅)整備や山陽本線上り線の付け替えで数件の家の立ち退きがあったのも昭和40年代のことであった。    
 

3.現代

現在の姿は、農業振興地区ということもあり田園風景が残っているが、近隣の町内に開発の波が押し寄せ近い将来にはその波に逆らえなくなる状況である。
近くには
平成17年10月に開業した北長瀬駅(北長瀬表町)
平成23年3月に開通し鴨田跨線橋の渋滞を緩和した岡山西バイパス(国道180号線)
平成27年5月に開院した岡山市立市民病院(北長瀬表町)
現在では 多くの商業施設などができ生活基盤が充実し生活に便利な町になっている。

 

参考資料:大野村誌(昭和31年発行)

大野学区60年のあゆみ(平成25年発行)

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