「ふるさと平井」シリーズ№28を掲載

投稿日:2021年8月1日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 28 p.195-206)

       第5章 開けゆく平井

   6.各 種 団 体

町 内 会
古い組織ははっきりしないが、岡山市では昭和15年(1940)内務省訓令に従い、従来からあった戸主会を改組して町内会に整備、画一化した。その目的は戦時体制下、国策の遂行や統制経済の運用の円滑化のためで、市の末端組織として明確に位置づけられていた。この時の町内会の区域は「町をもってその基準とす」とあり、更に「町内会の区域は之を隣組に分つべし」と規定している。昭和16年1月岡山市内には103の町内会があった。
ふるさと平井地区では、元町・元上町・四軒屋・湊・上平井・下平井の6町内会があり、その中が幾つかの隣組に分かれて、国民総動員体制の一翼を担ってきた。
終戦後、昭和22年4月連合軍の戦時体制追放令により町内会は解体されたが、昭和27年の講和条約発行前後から自主的に各地で町内会が結成され、行政と一体となって復興に当たってきた。
平井地区では古い地域の町内会再編成や、岡山市のベッドタウン化による新しい住宅地の充実で次々と新町内会が結成されてきた。人々はお互いの協調と相互扶助の精神に基づき、明るく住みよい生活環境づくりに励んでいる。現在(平成6年)学区内に26町内会があり、平井学区連合町内会(会長 那須友也)を組織し、岡山地区町内会の一員として平井学区の充実・発展に努めている。
以下に各町内会の生いたちや特徴などを簡単に紹介する。内容については「コミュニティだより」の記事や各町内会長の談話などを参考に記載する。なお町内会名の次の( )内の数は、平成6年6月末の世帯数で、市の地域振興課発行の岡山市町内会名簿による。また記載順も上記名簿の順番である。写真については各町内会が所有する集会所の紹介に留める。
(390) 湊

湊 公 会 堂

操山南麓の古い土地柄の地域で旧大字湊の西湊地区が一つにまとまった町内会であったが、最近2、3の新興団地が分離独立して新町内会を作っている。しかしなお、400近い世帯を有する平井学区屈指のマソモス町内会で、旧西湊新田地区には更に新しい住宅が建設されている。倉安川沿いの地域は昔ながらの静かなたたずまいを残しているが、道路が狭く、交通の不便は否めない。体育祭や盆踊りなど独自の行事も多く、青年部・婦人部等の活躍も盛んで、活気のある町内会である。
サンデスク操南台(107)湊
平成2年12月、湊町内会から独立60世帯程で町内会を結成した。湊の山腹一帯、毘沙門堂の上の辺りに位置する。S社造成団地で「緑を愛し、街並みを美しく整える」ことを入居条件としていたため、その趣旨に賛同するものが入居し、優れた街並みの景観育成に努めている。平成4年10月市の優秀建築物特別賞を受賞。自然との調和を図りながら個性のある、また暖かみのある街づくりを目指して頑張っている。
緑ヶ丘(47)平井4丁目
昭和27年8月、引揚者住宅入居者55戸で緑ヶ丘町内会を結成する。すでに40年、払い下げを受け建て替えられた家も多い。最初からここに入居している現町内会長は「往時は小学校と赤屋根住宅ぐらいしかなく周囲はすべて田畑。交通の便も悪く、また風呂がないので市に簡易共同浴場を作ってもらい当番制で管理していた。今は住宅やスーパーができ便利になったが昔は実に寂しいところだった」と語っている。
平井上町(215)平井6丁目

平井上町公会堂

古くは上屋敷と呼ばれたところ。県道岡山ー玉野線と旭川堤に囲まれた平井西端地区、現在の平井6丁目の大部分を占める。戦前からの古い町内会、戦後マッカーサー指令解除後新生会として再発足、その後平井上町町内会となる。通称上平井ともいい、古い土地柄だけに年代を経た家も残されており、新旧入り混った町内。旭川原のゲートボール場は毎朝愛好者で賑わっている。
元上町(117)平井1丁目
平井学区の北西部、操山の丘陵地と倉安川沿いの平坦地から成る古くからの町。丘の中腹から眺める展望はすばらしく、学区内随一である。近代のはじめ頃までは平井地内から岡山市内への山越えの近道が通じており、賑わっていた。また、旧蹟も多い。現在は新旧の居住者が相半ばしており、古い伝統を守りながら調和のとれた発展を続けている。
新町(85)平井3丁目
昭和32年旧三万坪に市営住宅が建ち、その入居者を中心に結成された。町内会名は広々とした田畑に囲まれた新しい町の期待をこめて公募により決定したとか。一時200戸近い町内会になったが、平成2年市営住宅が建て替えられ「平井団地町内会」で独立するに及んで、団地外居住者で、新町町内会を継承して今日に至っている。
平井団地(192)平井3丁目

平井団地中央集会所

旧市営住宅の老朽化に伴い、岡山市が鉄筋3階・4階住宅に建て替えたのを機に、入居者が、平成3年4月新町より分離して新しく平井団地町内会を結成した。児童遊園地、中央集会所等を備えた近代的な設備を誇る岡山市のモデル市営住宅町内会である。近隣との友好・調和をモットーに、平井学区のモデル町内会を目指し頑張っている。
須賀(110)平井7丁目
下平井旭川沿いの新旧堤防にはさまれたところにある、こじんまりとした町内。「須賀」という町名は古い文献にも見え、かつては池田藩家老の船屋敷が建ち並び、近代になってはセメント会社や旧土手筋の商店街などで活気にあふれ、隣接する土手、市場町内と共に平井地区の中枢をなしていた。今は静かな住宅地で、旭川河畔は毎年5月頃から秋にかけて蜆(しじみ)獲りやはぜ釣りで賑やかである。
平井元町(65)平井1、5、6丁目の各一部
古い文献で5軒屋また元平井と呼ばれていたところ。上道郡平井村の1番地(現6丁目1番地)があったので町内会名を平井元町と命名。県道岡山ー玉野線により町内が東・西両地区に分断されている。地区内を地蔵川と倉安川が流れ、最近排水センターができ、県道沿いに企業の進出もみられ、平井の西北の玄関ロとして発展を続けている。
川東(370)平井7丁目 平井
川東とは祇園用水の東側という意味で、古くからある下平井5町内会の1つ。県道岡山ー玉野線開通以来住宅化が急速に進み、今では平井学区有数の町内会に発展した。特に県道をはさんで両側にスーパーや大型店舗が並び、近く児童公園が設置されるなどかっての30余戸の農村型町内会は多様化が進み活気に満ちている。毎年の秋祭りには時代物のだんじりや獅子頭を先頭に大勢の参加で賑わい、古い伝統を守りながら町内融和に努めている。

土手(223)平井7丁目 平井
下平井5町内の1つで旧土手筋の南端に位置し旧川崎地区も含めた南北に長い古い町内会。また、サンホームやコミュニティ広場などの公共施設もあり、ここ10数年、目ざましく変貌した町内である。近くには河川敷グランドなどもあり、スポーツ施設に恵まれていることもあって、スポーツが盛んな町内会で、毎年の運動会・ソフトボール大会・バレーボール大会などには常に優秀な成績を挙げている。

中央町(125)平井5丁目
旧三万坪の西端、平井小学校の北側に隣接する一角、昭和33年約50戸程で発足した。早くは空地の雑草に悩まされたが、現在は空地が殆ど見当らない。平井の中央に位置することと、いろいろな面で平井の中心になるよう願いを込めて中央町と命名する。町内諸行事は子供会を中心にふれあいのある活動を続けている。
市場(134)平井7丁目
平井が旭川の河口であった元禄の終わり(1700頃)までは瀬戸内の漁獲物の集積地として栄えたらしく、更に古い平井の用場(役所)や平井村役場などがあり、また明治以降旧平井土手筋商店街の一街を占めるなど平井の中枢的な位置にあり、その役割を果してきた。古い市場戸主会は、戦中戦後、改組・解体したが、昭和34年旧組織の住民(約50戸余)によって再発足した。町内には妙広寺、郵便局、小学校をはじめスーパーや金融機関などもあり活気にあふれている。

北川(250)平井7丁目
祇園用水が北側を流れているので北川と呼ばれるようになったとか。かつては下平井中央部に位置する純農村型町内会であったが、今では県道が町内を分断、急速に市街化が進んでいる。古い土地柄の地区だけに、かつては南に広場を持った農家が殆どであったが、今は近代的な住宅に建て替えられ、アパートやマンションが軒を連ねている。平井の今昔をそのまま物語る典型的な町内会と言えよう。
操南団地(165)平井
昭和42年、下平井川崎地内に造成された団地の町内会、業者の造成団地名をそのまま町内会名とし、発足以来すでに4半世紀、落着いた住宅街を形成している。町内最大の行事は夏まつりで、町内会結成時、住民相互のふれあいの場として計画され、今年ですでに25回目を迎える。毎年子供達からお年寄りまで楽しめるよう趣向をこらし、居住者の約85%が参加しており、町内の伝統行事として定着している。
平井荘苑(48)平井
昭和45年、30戸余で発足した。平井地区最南端に位置する小じんまりとした町内会。当初は田植期になると子供の通学路が水に浸かり歩けないこともあったが今では道路も舗装され、家が増えると共に環境整備が進んでいる。新しい団地町内会のため、子供会の行事などを中心に町内の親睦を図り、また近隣町内とのコミュニケーション作りに努力している。
四軒屋(275)平井2丁目と1、3、4、5丁目の一部
町名「四軒屋」が示すように古くは倉安川沿いに数軒しかなかったが、現在は丘陵地の谷間まで近代的な住宅が並び、250世帯を超す、平井でも1、2を争う大町内会に発展し、今なお宅地分譲やアパート建設が続いている。地区内には山陽学園大学があり山越えの道や倉安川沿い道路も拡幅され、交通量も多く、ますます発展を続けている。
国富田(自治会) (155)平井5丁目
昭和49年4月に自治会を結成、自治会名の国富田は小字名をそのまま使用している。倉安川、祇園用水が町内を流れ、土地が低く、かつては大雨のとき冠水の心配もあったが、今では排水センターができ、用水の護岸も整い、道路も拡幅されてその心配は解消されている。平井地区の北西部に位置する比較的大きな住宅街をなしている。
栄町(72)平井5丁目
平井小学校西側、南流する地蔵川に沿った新しい住宅地。昭和50年4月、10数世帯で町内会を結成、年と共に世帯数を増し現在に至っている。コミュニティの各種事業には、積極的に参加し、学区の発展に協力、住みよい街造りに努力している。最近(平成5年)町内を東西に貫通する祇園用水沿いの従来私道であった道を町内会役員の努力によって市道化することが決定し、一部拡幅されている。町内発展の新しい要素が1つ加わった感じである。
あすなろ(35)平井5丁目
昭和53年4月、平井上町町内会から12戸で独立した県道岡山ー玉野線東側に位置する小さな町内会。町名は「明日は檜(ひのき)になろう」という木の名前にあやかって町内会の活気に満ちた発展を願って付けられた。世帯数が少なくまだ充分な活躍はできないが、徐々に環境整備が進み、県道沿いを中心に発展しつつある。

平井学区町内会配置図
(平成6年4月現在)

公務員宿舎(64)平井4丁目
面積約2100㎡、鉄筋3階建2棟・4階建2棟の小さな町内会。旧三万坪の東端に位置する。町内会名が示すように全戸公務員の家庭で、出身地は北海道から沖縄まで全国に亘っている。比較的若い人の世帯が多く、活気はあるが、転勤による移動が多いため町内のまとまりは今1つという。地域に密着した活動が行いにくい特殊性はあるが、学区の諸行事には積極的に参加し地区との交流を深めるよう努力している。
東町(97)平井3丁目
昭和54年4月、37世帯で新町より分離独立した町内会。新町の東、平井地区の東端に位置するので東町と命名。田圃の中にできた新しい住宅団地である。「遠くの親類より近くの他人」という諺を大切に、お互いの協力で情緒ある街づくりに努力している。特に年1度の町内バス旅行は毎年バスに乗り切れない程の参加者で、ふれあいのある有意義な1日を楽しんでいる。
成徳学校(13)平井2丁目
昭和55年秋に成徳学校の職員で結成、小じんまりとした職場の延長のような町内会。諸行事には家族と共に60数人の生徒も参加している。すでに述べたように、成徳学校教育の原点は家庭寮による生活療法である。町内会諸行事に家族・生徒全員が参加し、楽しむことは、極めて価値のあることで、ここでは町内会組織も教育の一端を担っていると言えよう。
すみれ(110)平井3丁目
県道岡山ー玉野線と操南学区倉田に接する一角、中銀計算センターを中心とする地域で、昭和50年頃から住宅が建ち始める。昭和55年4月、40戸程ですみれ町内会として発足する。すみれとは田園の中に点在する赤や青の家並から付けられた町名とか。現在(平成5年)平井グリーンタウンをはじめ2・3のミニ開発を含め、約80戸が造成中、今後の発展が期待される。
操南台東ヶ丘(4)湊
湊池の内からサンデスク操南台団地に入る道の一番高い辺りにある4世帯だけのごく小さな町内会、南の眺望はすばらしい。隣接町内会への編入が、建設業者の関係からできず、やむなく平成4年新町内会として発足した。地形的に今後の拡充は余り期待できないが、現在は学区内の独立した町内会として責任を果たしている。
湊東山ニュータウン(68)湊
昭和40年代後半にできた団地。湊の山の中腹にある。つい最近まで湊町内会に属していたが、平成5年10月67戸で独立、新しい町内会を組織する。東・西湊の境のあたりを山へ登っていくと突然に開ける閑静な住宅街で、付近には旧操陽小学校跡といわれる竹藪などがある。結成後日は浅いが、今後の活躍が期待される。

(つづく)

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