2.淡水魚保護宣言                       案内トップへ戻る

淡水魚保護宣言除幕式 スイゲンゼニタナゴの写真

賞田の農業用水に泳いでいた多くの魚を求めて、10年程前から密漁や乱獲が目立ち始めた。
「何とかして魚のはねる昔の川をとりもどしたい。との願いで、岡山淡水魚研究会と協力してアユモドキと共に、全ての淡水魚の捕獲禁止を訴える活動を始めることとなった。
2002年7月に「いつも魚が泳いでいる川をつくり、自然の豊な高島地区を目指して努力します。」とした「淡水魚保護の町」宣言をしたのです。
たくさんの地域住民が淡水魚に親しみ、愛着を持つことが保護運動の始まりになると考えて、魚とり大会などを開いて魚を知り、魚と共に美しい賞田の自然を守り続けていきたいと思っております。



『賞田町内会の淡水魚保護宣言』によせて 

岡山市賞田町内会会長 服部仁壽 (2001.5.21)

1. 魚が川面に跳ねる中田川の復活をめざして

1980年頃から岡山淡水魚研究会が賞田町内を流れる古田樋尻川・中田川でアユモドキの調査活動、保護活動を始めておられる事は、二代前の塩見会長から聞いていました。1988年頃から淡水魚研究会が賞田町内の水田を借りてアユモドキの稚魚の増殖に取り組んでおられまして、私は昨年初めて稚魚の確認作業に参加しました。「アユモドキは今でも賞田で生まれているんだ」と感動を覚えた次第です。

4年前(98年)の町内会総会で「中田川に魚がほとんど見えない」「昔の様に魚が川面に跳ねる中田川を取り戻そう」といった多くの声に励まされ、町内会としてアユモドキを含む全ての淡水魚を守る活動に取り組む事になりました。初めのうちは失敗の連続でした。毎年食べているアユはいいだろう、自分だけ知っているウナギの取れるつぼがあるので取ってもいいか、親子で魚釣りをしてもいいでしょう、等を許していましたが全ての淡水魚を守るには「全面禁漁」で進めないと保護活動が出来ない事がわかりました。

98年と99年に淡水魚保護活動の進め方について、淡水魚研究会・行政担当者・水利土木委員の出席で座談会をしました。結果的に98年の脇田公会堂での座談会が「保護宣言」につながっていったと思います。座談会で確認した事は次の四点です。

(1) 中田川にはアユモドキを含め川魚は殆どいなくなっている。
(2) 魚が少なくなった一番の原因は観賞用淡水魚の販売業者が行う投網による乱獲である。
(3) 農薬と新興団地の生活排水も魚が死ぬ原因の一つではあるが、今日の農薬や洗剤は薬品メーカーの努力で魚が死ぬ様な事は無い。
(4) 県外ナンバーの車で来る淡水魚業者を締め出す何らかの根拠が必要だ。


2. 「おかやま街いきいき活動」からの補助と「淡水魚保護宣言」

99年後半の"おかやま街いきいき活動"から援助を頂いて町内会新聞「賞田情報85号」を特集号としてカラー刷りとして「高島の自然を守ろう」を発行し2000年2月に高島学区4500戸に全戸配布しました。この活動を契機に、にわかに町内で淡水魚保護の気運が高まり3月の町内会総会で色々な提案がありました。

(1) 行政の責任で淡水魚捕獲禁止の看板を増やせ。
(2) 団地の生活排水の指導を行政に申し入れよ。
(3) アユモドキ捕獲は法律違反だから警察に取締をお願いしよう。
(4) 町内に監視員をつくり捕獲業者に淡水魚捕獲禁止を訴え「賞田で魚を捕ったらうるせーなー」と言われる迄粘り強く捕獲禁止を訴えよう。
(5) 子供たちが淡水魚に関心を持つような行事に取り組み、川をきれいにすると魚が増えてホタルも飛び交うようになることを見せてやりたい。

2000年7月に高島公民館で「いま、なぜ淡水魚保護宣言か」のテーマでシンポジウムを開催したところ20の町内から50人以上の参加があり、次の様な発言がありました。

(1) 40年前は500戸だった高島学区は今では4500戸になり、自然環境が大きく変化した。40年前には9月の稲作の水落としにはアユモドキがバケツいっぱいに捕れていたのに今は殆ど姿が見えなくなった。
(2) 農家の後継者不足で藻刈りや川掃除の高齢化が進み、川の底張りや護岸のコンクリート化によって淡水魚が棲みにくくなっている。
(3) 川の魚が減ったのは賞田だけでなく、中井ではナマズも見えなくなっている。
(4) 冬川(10月〜5月)の水量が少ないので、防火用水の必要性からも水量を増やしてもらいたい。
(5) 川の水をきれいにすることは、大切な事なので高島全体で取り組んでほしい。

2000年7月30日の「淡水魚保護宣言の町」看板塔除幕式には町内会の70人を含め百余人が参加して下さいました。保護宣言文は、私たち賞田町内会は淡水魚を守るため『アユモドキが棲む川をつくり』『いつも魚が泳いでいる川をつくり』『いつもきれいな水が流れる川のある自然の豊かな高島地区をめざして努力します』といったものです。全国的に数カ所にしか生息が確認されていない絶滅危惧種のアユモドキを保護する気持ちを、ごく自然な形で取り組む決意を述べたものです。


3. 魚はふえて密猟者も増える。賞田の川が自然博物館

2000年の秋から2001年の春にかけて、七つ石等の深い所では川底が見えない程真っ黒になる魚達が戻って来ました。魚が増えると見学に来る人も増え水族館より多くの魚が見えると評判になりました。それと同時に釣りをする人や網で魚をすくう人も増え、日曜祭日には県外車が目立ち説得も大変でした。10,11月に捕獲禁止を訴えて退散してもらったのが私だけで6件ありました。神戸から来ていた3人は、胸までのゴム長を着て七つ石に入り一網打尽に魚を捕っていました。「ここにしか魚がいないから」「看板は見たけれどアユモドキだけが禁止と思った」と言いました。3月頃から急にプロの投網による密漁が多くなり、たちまち魚が少なくなって来ました。観賞用だけでなく海釣りのエサとして朝までに漁具店に納めるため、夜から深夜に掛けて投網でハエの小魚を捕るのです。「わしは何も法律違反はしていない」といって銭になるまで帰ろうとしませんでした。魚を逃がしてくれと言うと「わしはこれで食うていきょんじや」と言います。法的な根拠が無いので地域の運動として取り組んでいますから、あくまで退散をお願いし淡水魚保護に協力をお願いするだけに止まります。今までの全ての密漁者が言うように、賞田が川魚の宝庫である事は間違いありません。1年間監視を続けて見事に魚は戻って来ています。この事に自信を持って、「子孫に美しい川を残す」という誇り高き取り組みを続けたいと考えています。


4. この運動に取り組んで明らかになった教訓

新幹線からわずか1km離れた賞田の地に、数百年かそれ以上も続いてきたアユモドキを含む淡水魚の子孫継承の生態が脈々と続いていた事を思うとき自然に対する深い畏敬の念を感じます。私達町内会が取り組みを始めた淡水魚保護の運動で明らかになった事について述べておきます。

(1) 自分たちが食べる米は自分達で作る為に、祖先が残した川とその水資源を大切に思うから、日本の農業政策に大きな関心を持って行くこと。農地が荒れては魚の産卵場が無くなる。
(2) 自然を守る運動は地域住民が先頭に立つから出来る事で、他の誰も責任を持ってやってくれないものです。
(3) 自然保護思想の啓蒙活動はまず地域の住民から始めてみる。困難な原因は地元の地域住民から明らかにされます。
(4) 賞田の運動が始まったのは意見交換の場があったからです。町内で座談会が持てた事が運動の起点だったと思います。
(5) 良いことだと思ったら皆で決めて皆で取り組む事です。必ず協力者が出来ます。賞田に建設中の淡水魚観察の為の小公園(2001年6月完成)もほとんどボランティアで出来ました。


5. 今後の課題について

(1) 川の魚を捕りたいというのは人間の本性だから、「捕りたい人、釣りたい人に自由に捕らせたらいいのではないか」という意見にどう応えるか。
(2) アユモドキに法規制がかかっているように、賞田地区に淡水魚捕獲禁止の条令をしたらどうか。
(3) 市の文化財保護行政にもっと予算措置を要請してはどうか。
(4) 農業施設課にアユモドキの保護の姿勢を持ってもらいたい。
(5) 子供たちを中心に淡水魚保護の大切さを啓蒙する為、川魚に親しむ機会を増やす。
(6) 用水の三方コンクリートは水の浄化に役立っていないという疑問に答えを出したい。
(7) 淡水魚保護宣言の町を高島の学区内に広めたい。

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