「原」の歴史、法萬寺に伝わる古図の解説と時代背景の探索
 
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                                                                山川 勉         


法萬寺は奈良時代の天平勝宝年間に報恩大師により開基され、所蔵の古図は江戸時代初期、寛永七年(1630年)に描いたものですが、描いている風景や模様は作成した年代より百五十年以上前のものです。原が中心の鳥瞰図で、伝承に基づいた繁栄を良く表しています。大正時代に模写し彩色を施した絵図「御津郡龍ノ口城及舟山城付近古圖」です。
 <部分図3>



部分図3の内容

西谷千軒と呼ばれ多くの家々がありました、刀剣で有名な長船が長船千軒と呼ぶように大集落の総称です。
西側の山を越えると津高の穴海が有り、海の恵みは原側と津高側にありました。今も石積みで西谷千軒の宅地跡が見られ、須恵器の花瓶の破片、中国からの輸入品の陶磁器の破片が出土し繁栄が忍ばれます。又、民家で瓦屋根の家々があるのには驚きます。
描かれてはいませんが上池の上に真言密教の守護神としての摩利支天があり、現在も住人の手により管理されています、この場所に立っていると威厳を感じる場所です。わずかですが水田もあり、上池、中池、下池にシーズンになると鮎とかウナギが登って来て夏になると蛍が乱舞したことでしょう。また、上池から上の道は谷川筋を通って山門に到着します、途中は絵画的で原で一番よい見所のある地形(青森県十和田湖の奥入瀬渓谷の超ミニ版)をしていると思うのですが、現在は木々が生えて通行はできません。   
(*原町内で現在竹林になっている場所で、その中に約30坪から40坪くらいの平地があれば昔の宅地跡と思います。石積みの隅の石を見れば、宅地跡と畑や水田の区別がつきます、山桜などは線でつなぐと、今は忘れられ、昔に人が通行した農道であろうと思います。石積みは表面が白く貝殻状の苔が付いているようなものは、300年以上経っている場合が多いようです。)



  <部分図4>

部分図4の内容

伽藍配置を描いています、今頃の公共建築物のように税を投入して一気に建築されたのではなく、奈良時代から室町時代の終わり頃まで、民衆の力で時間をかけて建立したと思います。又、800年間繰り返し補修もしたので、礎石も奈良時代の姿を見ることができます。又、瓦も奈良時代から焼失する年代まで見ることができ、ときおり数字の落書きや作った人の指紋などがそのまま焼かれています。特に平瓦の四枚作りの工法、(凹側に麻布の文様があり、凸側を叩き板で締める工法)から現在と同じ一枚作りの工法、(瓦の型の上に粘土を置き作る)まで見ることができ、技術指導者をどこに求めたのだろうか。造営計画、伽藍配置、堂塔の建設、仏像の調達、荘厳具の調達、経典の書写、どれひとつとして簡単にできるものではなく、それらの苦労は千数百年を経て出土する瓦によく表れています。分厚い瓦、均整のとれてない瓦、大きさが少し違う瓦、瓦作りの工人を得にくかった様子など手にとるようである。
元亀元年(1570年)金川城主松田氏の改宗を拒んだため金山寺、古寺と共に西谷千軒の村も焼き討ちされました。焼き討ちをしなくてはならない程の経済力と、ある程度の軍事力を持った抵抗勢力だったことを裏付け、本堂付近の焼けた地層からお賽銭の代わりに丸くて平らな旭川の石が出土し、中世までの仏教の寛容さを感じます。中世までの山上伽藍は現在の牧石郷では、金山、笠井山と呼び名すら忘れている、西谷山でした。古代山陽道を通行する人々の眼には、遠くからどのような姿の山に見えたのだろう。   
(*平地寺院は仏教伝来から地方に普及する時、初期は豪族などの氏寺として建立する場合が多く、山岳寺院(山林寺院)は少し時を経て、日本の自然を崇拝する神々と合体し、近くに岩とか水源とかがあり、同じ時代の集落、交通路、墓地などと一定の距離を保つ場所に作り、風水を取り入れ鎮護の基盤を強固にする考えがあったのが普通と言われる。僧侶は月の上半は山に入り修行、月の下半は寺院に滞在した。伽藍配置は周辺の地形に合わせるので教科書通りの、なんとか式、とは異なった。時が進むと、又、平地に寺院を作るようになる。)  
(*吉備古瓦図譜(1929年発行)に笠寺の瓦として中央部に三鈷剣が十字の形をした軒瓦文様が載っています、左右に葡萄唐草文様があります。この時代の山岳寺院と平地寺院を見る特徴と言われています。独特の三鈷剣の軒平瓦文様と先に述べた奈良時代の姿の礎石から、西谷山妙塔寺、もしくは、西谷山妙法寺のものと思いたい。又、ご意見、史実などあればお知らせ下さい。)

                                                           文責   山川 勉

(参考資料)
岡山市史、山陽町史、岡山県御津郡誌、宇野地区の歴史、新釈備前軍旗、おかやま風土記、瓦と古代寺院、 岡山県の考古学、前方後円墳集成中国四国編、御野郷今昔物語、吉備されど吉備、日本史の中の津島

IT部のスタッフのご指導と助言も受け、町内の伝承を文献にある史実と照らして文章を作成しました。

(備考)
漢字の使い方で龍ノ口と龍口及び邑と村を使い分けているのは時代を表す文献の通り書いた為です、三野臣をミヌノオミ、佐々ヶ迫(ささがせ)城と記載しているのも同様です。