「原」の歴史、法萬寺に伝わる古図の解説と時代背景の探索
 
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                                                                山川 勉         


 <部分図2>



部分図2の内容

中世、旭川水系が海と交わる地点が舟山でした。陸路は幾つかありますが旭川水系では舟山城の前を通らなくては川船で、美作、西備前、東備中方面に行くことは出来ず、物資を大量に運ぶことも出来ませんでした。
戦国時代は軍事ポイントとしては最重要拠点で、牟佐の渡しの監視など陸の戦いに加え、海上の戦いの用意に船も必要でした。
舟山城の出城の明見(妙見)山城は古名は鑵子釣(かんすのつる)古城と言い、当時から古い要衝で太田安藝守の居城でした。後に鑵子の釣の渡しの防御として改修し、明見(妙見)山城を出城とします。川を越えた牟佐の東側の馬屋に金川の松田氏の枝城、「兜山城」、と穂崎に竜口城の樶所元常の臣、和田伊織の「両宮城」、目の前の樶所氏の難攻不落の「竜口城」、現在の中区の竹田にあった中島氏の「中島城」、岡山大学裏の林氏の「半田山城」と東側に源平合戦の時代に妹尾(瀬尾)太郎兼康が木曾義仲の進軍を待ち受けた「烏山城」(佐々ヶ迫<ささがせ>城)、金光氏の「岡山城」(石山城)と数多くありました。敵が鉄砲や弓で狙える狭間が描かれているので柵から城郭の変化を物語っていますが、漆喰で塗られているため時代違いとなり、描いた絵師のお城の概念がそうさせたのであろう。
須々木豊前守が最後の城主で、平安時代終わりから鎌倉時代に「武藏七党」のひとつで「丹党」という国人集団があり、今の埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄に居住し薄(すすき)氏を称した。薄氏の本家筋の「丹党中村氏」が播磨に移住になったのに伴い備中国と備前国に移住したと言われている。金山寺文書の正和二年(しょうわ 1313年) 「丹治宗行」寄進状に「須々木惣領殿」と端裏書があることから「丹治」を本姓とするらしい。
金山寺寄進状の話は鎌倉に幕府が出来て約100年後の話で、幕府の土台が揺らぎ始め滅亡約20年前に着任したらしい、御野郡御野郷宿邑に長く居住し、舟山に館を構えるのは室町時代中期頃以降と思う。南北朝時代の太平記に丹治宗行の孫かひ孫の、須々木備中守高行が登場する。

原は郡(こおり)は御野郡に属し、郷(ごう)は現在は牧石に属していますが長い年月の大半、特に江戸時代の中頃は枚石郷(ひらいしごう・今の牧石郷の古名)でなく、原邑、宿邑、三野村の三村で御野郷を形成し、たとえば原の公会堂の住所は、備前国御野郡御野郷大字原邑小字磯尾でした。

原は屋号を持つ家が多い二つ目の理由は、山陽道が宿邑の鑵子の釣の渡しを通る頃(鎌倉時代・室町時代の約300年)、宿屋が少しあり、足利尊氏、羽柴秀吉も渡りました。山陽道が江戸時代に岡山城下になっても東西の道路として、鑵子釣の渡しを利用する人も少なからずいたので宿屋も少しは営業していた。また、生活物資を扱う商店もあったが、長さ、六十八間、幅、四間、の京橋ができて急減するが、江戸時代中期頃から旭川水系の人口(岡山県北部)も急激に増え、人々の生活も平和が続くので豊かになり、高瀬舟(長さ、約15メートル・幅、約2メートル)により北部からの物流と人の往来が観光を含め江戸の初期頃に比べ特別多くなった。高瀬舟は、勝山、落合、福渡から今の旭川の山陽本線鉄橋付近を往復して荷物の運搬を仕事としていた。米、麦、雑穀、薪、炭、竹細工、藁の製品(縄、むしろ)、などが運ばれ、木材、竹、などは川を筏で流し、出石町、石関町に材木商があった。帰りは売った代金で県北に必要な畳表、塩、砂糖、油、など生活物資を購入した。人を運ぶ船は座席が付いており飛船(人船・ひせん)として運行した。勝山と岡山は下りは一日、上り五日で一往復した。また、岡山の城下町に行く人も、観光の人は牟佐の渡しから歩いたり、鑵子の釣の渡しから歩く人も多くいました。東風の日は旭川を上る船頭の歌が良く聞こえたと言う。鑵子の釣の渡しと牟佐の渡しとの間の原にも、宿屋とか食べ物屋さんとか、特に身近な生活物資を扱う店が昭和の初期ぐらいまであったのだろう。勝山と福渡の間は水量が少ないので、田植えシーズンから米作りに水が必要な期間は、水田に水を引き込むために川の中に井出(いで・<堰・せき>)を作るので運行出来なかった。明治31年中国鉄道本線(後の津山線)が開通し、それから約30年の歳月をかけてなくなっていく。

これより時代が上がり貴族が所有する荘園が多くある平安時代中期頃は、郷と郷の境界は魚介類、鳥類の捕獲権があるので川とか波打ち際を越えて山の尾根で決めるのが一般的で、戦のある時代が来ると戦略上、川とか谷とかを境界に設定するので低い山の舟山城のメリットは、物流と周辺の城主の情報収集が素早くできた位置を優先したのであろうが、一度だけ降伏をする。永禄四年の五月、三村家親に攻められ賀陽郡服部郷長良山城主禰屋七郎兵衛が「豊前を舟山に籠らしむ」と古書にあるので降参したが三村氏の勢力下に組み入り生き延びる、この良山城主禰屋七郎兵衛は二年前に竜口城が宇喜田勢に攻められた時、三村氏の命で救援に来て竜口城に籠城して宇喜田勢が攻めるのをあきらめさせた人です。そして永禄十年の明善寺合戦の後、宇喜多直家によって二つの城は破棄し、豊前は茶領三十石を貰い帰農し隠居名を行蓮と名のった。息子の明見山城の四郎兵衛は宇喜多直家・秀家に百四十石で仕え、宇喜多家が没落の後は他に仕官せず、約二十数年遅れて原に隠れ住んだが、行連はすでに没していたらしい。
(*原の属する、郡、郷は「和名鈔」御野郡は枚石(牧石)郷、三野郷、廣世郷、出石郷、伊福郷、津島郷、となり原が枚石(牧石)郷か御野郷かは不明。「慶長十年備前国高物成帳之内郷・荘・保(1605年)」では牧石郷は三野村(宮本村、畑村、鮎帰村)、原村、宿村で枚石(牧石)郷を作った、この割り振りは少し妙に思うが舟山城の時代が残ったのだろう。「吉備温故(1789年〜)」御野郡御野郷は御野村、宿村、原村でした。寛文4年(1664年)藩令をもって三野から御野に改める、また、明治33年に御野郷と津高郷が合併して御津郡となり、大正時代に入り模写し彩色を施した絵図と年代が一致する。)
                                                           文責   山川 勉

(参考資料)
岡山市史、山陽町史、岡山県御津郡誌、宇野地区の歴史、新釈備前軍旗、おかやま風土記、瓦と古代寺院、 岡山県の考古学、前方後円墳集成中国四国編、御野郷今昔物語、吉備されど吉備、日本史の中の津島

IT部のスタッフのご指導と助言も受け、町内の伝承を文献にある史実と照らして文章を作成しました。

(備考)
漢字の使い方で龍ノ口と龍口及び邑と村を使い分けているのは時代を表す文献の通り書いた為です、三野臣をミヌノオミ、佐々ヶ迫(ささがせ)城と記載しているのも同様です。