法萬寺は奈良時代の天平勝宝年間に報恩大師により開基され、所蔵の古図は江戸時代初期、寛永七年(1630年)に描いたものですが、描いている風景や模様は作成した年代より百五十年以上前のものです。原が中心の鳥瞰図で、伝承に基づいた繁栄を良く表しています。大正時代に模写し彩色を施した絵図「御津郡龍ノ口城及舟山城付近古圖」です。
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<全体図>
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全体図の内容
室町時代末期(1500年頃)の風景です、古図左、古寺の名称は不明ですが西谷山妙塔寺、西谷山妙法寺、もしくは笠井山妙法寺(通称、笠寺)と呼ばれ、三重の塔があり法萬寺の元寺を描いたと伝わっています、原は吉備の穴海(あなうみ)と呼ぶ海と簸川(ひのかわ、旭川の古名)に面し満潮時には鯛が釣れました。波打ちぎわの風景は海面の高さから、室町初期頃と思われます。雲の向こうに金山寺、右側に竜ノ口城、その下に舟山城とその出城で三野公園に隣接した明見(妙見)山城が見えます、笠井山の笠寺の境内にあったとされる薬師院も地震で温泉が出なくなりこの頃には衰退していますが、樹齢2百年以上の松の木の大木が山々にあり桜が咲き、幾つかの時代の良いところを重ねて描いています。笠井山に登る道は現在も当時のままの経路を残しています。(*法相宗の笠寺は金山寺の外寺にて笠井山の中腹にありと古文書にあるので、新しい発見があれば笠寺ではなくなります。また金山寺は寺記に「今の寺地より西北妙見の峰に創建した」が、延久元年(1069年)嵐にて焼失し、現在の位置になり、後記のように改宗の要求を拒み二回目の焼失をします。)
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<部分図1>
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部分図1の内容
舟山城と下側に法萬寺と若宮八幡宮が描かれ、竜口城方面から渡し船で舟山の海岸に向かっています、下に帆掛け船が二艘見えます。
若宮八幡宮の右端の一番飛び出ている岬が今の荒神様のようです。
古代には山の尾根から人が海に帰って行く通り道がありました、その風習に従い岬から直線の場所に後世に八幡宮を作りました。又、描かれていませんが若宮八幡宮の北側に弥生時代後期の片山古墳(前方後円、墳長・47メートル)があります、地方国家、吉備国の在地豪族を支える人々が住んでいて、三野臣(ミヌノオミ)の一族などの思いがここに眠っていると思います。
原と宿の小室との間に寺院や舟山城の瓦を製造したと思う中世の窯跡の遺跡はありますが、若宮八幡宮の付近は岡山市埋蔵文化財包蔵地に指定されています。民家が八軒描かれています、村人が使用している道路は奈良時代は古代の山陽道で大宝令により国内随一の大路です、京都から太宰府に通じ中央の官衛と地方の国衛を結ぶ交通と通信機関として、一般庶民にとっては、租税、労役、兵役など国家に対する義務的負担を果たすため原より西の人々は通らねばならない道でした。ちなみに東海道は中路でひとつ格下の道路でした。
近世では備前藩の六官道のひとつで倉敷往来呼ばれ、道筋は、下之町−広瀬町−中井北方−三野村−原村−川本村−宮本−牟佐の渡し−牟佐村−馬屋村-和田村−町苅田駅−美作倉敷(林野)の経路で勝間田に行く「中道」でした。ちなみに津高町の津山往来も同じく中道でした。原は屋号を持っている家が多いのは、二つの理由のうちの一つだと思います。
(*別の資料の話になりますが寛永七年から約130年後の江戸時代の中頃(宝暦11年、1761年)、草刈り場争論絵図に原村の簡略図が残されています、家は九軒程度しかありませんが、古図に描かれている海岸線(今の県道と谷川の間)より南側に家が建ち海の磯から原平野に変化しました。)
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文責 山川 勉
(参考資料)
岡山市史、山陽町史、岡山県御津郡誌、宇野地区の歴史、新釈備前軍旗、おかやま風土記、瓦と古代寺院、 岡山県の考古学、前方後円墳集成中国四国編、御野郷今昔物語、吉備されど吉備、日本史の中の津島
IT部のスタッフのご指導と助言も受け、町内の伝承を文献にある史実と照らして文章を作成しました。
(備考)
漢字の使い方で龍ノ口と龍口及び邑と村を使い分けているのは時代を表す文献の通り書いた為です、三野臣をミヌノオミ、佐々ヶ迫(ささがせ)城と記載しているのも同様です。
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