当新田の歴史

慶安 2年(1651年)
汐止工事を行い、当新田ができる。
承応 3年(1653年)  
開拓が完成。備中松島に生まれ、医者になっていた和気与七郎当庵が藩主の許可を得て開墾したもので、当庵は米倉新田を開いた和気与左衛門の末弟で、彼は村名を当庵新田とつけるよう願い出ましたが、庵の字を削られ当新田となった。当新田は、検地下札474石で、12戸入植干潟に茂るヨシは特産で、名主喜三兵衛の屋敷内に御用ヨシを小屋に保管し、御用ヨシは藩主に献上されていた。寛永年間は岡山藩主池田忠雄(ただかつ)によって、御野郡南部の開拓が進められ、(平福、福島、浜野、福富、福成、福田など旧福浜村の地域や旧芳田村の泉田、米倉など)万倍、当新田は池田光政が鳥取から岡山に移り岡山藩主になってから開発された土地である。 明暦1年(1655年)、延宝1年(1673年)、延宝7年(1679年)、正徳2年(1712年)、享保6年(1721年)は大洪水、暴風雨により南部床上浸水、一面の浸水により甚大な被害を受けている。

文化 6年(1809年) 当新田堤の補修の為、平石吉兵衛が受け、青江村武助宅に工事始まる。
安政 1年(1854年) 安政南海大地震M8.4  11月4日
安政南海大地震M8.4  11月5日
文久元年(1861年) 堤防には松並木として植えられ、松の木の間にはハゼの木を植え、実益を兼ねいていたと書き残されている。
明治 4年(1871年) 廃藩置県が実施され、岡山藩が岡山県となり、戸籍編成のために区画が制定され備前の92町769村は、44区149小区に分けられ泉田、当新田、万倍、米倉、新保42区と記載されている。
 
明治21年(1888年) 市町村制が公布され、万倍、西市、米倉、当新田、泉田、新保、富田の7カ村が合併して芳田村となる。
明治25年(1892年)  当新田四番稲荷大明神は明治25年7月26日豪雨で笹が瀬川の水位が二丈余り(約6M)にもなり、堤はやがて決壊し承応2年(1653年)以来の大洪水となり遭難をするちょうどその時、濁流に一個の厨子(ずし)が流れ4番樋に漂着。樋の番人渡辺琴治が拾い上げてみると、稲荷大明神の像であり厨子を松の下に安置してお祀りした。
明治28年 当新田教会所
昭和59年3月 公会堂落成
平成6年2月 当新田ポンプ場完成
平成13年3月 当新田中公園完成


当新田は不滅です。(@_@) 次は、町内の活動です。