偉人館(別館Ⅱ)
吉田松陰のことば、朗唱文
一学期
一年生
今日よりぞ 幼心を打ち捨てて 人と成りにし 道を踏めかし。
今日までは、親にすがり甘えていたが、小学生となった今日からは、自分のことは自分でし、友達と仲良くしよう。
二年生
万巻の書を読むに あらざるよりは いずくんぞ 千秋の人たるをえん。
多くの本を読み、勉強しなければ、どうして名を残すような立派な人間になることができようか、しっかり勉強しなさい。
三年生
凡そ生まれて人たらば 宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし。
人間として生まれてきた以上は、動物とは違うところがなければならない、どこが違うかというと、人間は道徳を知り、行うことができるからである。
道徳が行わなければ、人間とは言われない。
四年生
凡そ読書の巧は昼夜を舎てず 寸陰を惜しみて是れを励むにあらざれば 其の巧を見ることなし。
読書の効果をあげようと思えば、昼と夜の区別なく、わずかの時間でも惜しんで、一心に読書に励まなければ、その功をみることはできない。
五年生
誠は天の道なり 誠を思うは人の道なり 至誠にして動かざる者は未だ之あらざるなり 誠ならずして未だ能く動かす者はあらざるなり。
誠というものは人のつくったものではなく、天の自然に存する所の道である。この誠というものに心づいて、これに達しよう。
これを得ようと思うのは即ち人の人たる道である。学んでこれを知り、つとめてこれを行うのは人たる者の道である。
このように、誠の至極せる心に会っては、何物も感動させないものではない。誠というものはすべての元になるものである。
六年生
体は私なり 心は公なり 私を役して公に殉う者を大人と為し 公を役にして私に殉う者を小人と為す。
人間は精神(心)と肉体の二つを備えている。そして、心は肉体よりも神(神性)に近いが、肉体は動物に近い(自己本位)。
ここでは、精神を公とよんで主人とし、肉体を私とよび、従者とする。すなわち、人間は公私両面を備えている
なお、精神を尊重するのは、良心を備えているからである。主人たる精神を使役するのは、小人(徳のない人)の為すところ。
これに反し、従者たる肉体のために、主人たる精神を使役するのは、小人(徳のない人)の為すところ。
同じ事を繰り返すが、肉体(私)を使役して、徳を修め、道を行うことに心がける者は大人、反対に、道心、天理(公)を犠牲にして肉体(私)の欲望を満足する事を目的とする者は小人。
二学期
一年生
世の人は よしあしごとも いわばいえ 賤が誠は神ぞ知るらん。
(海外渡航の企てについて)世間の人は、私のとった行動を良くないと言う人もいるだろうが、私の国を思う真心は神だけが知っているだろう。
二年生
一己の労を軽んずるにあらざるよりは いずくんぞ兆民の安きをいたすをえん。
自分一己の事も骨身を惜しまず働くようでなければ、どうして多くの人のために尽くすような立派な人間になれようか。
三年生
志を立ててもって万事の源となす 書を読みてもって聖賢の訓をかんがう。
何事をするにも志(心のゆくところ・心ばせ)がなければ、なんにもならない。
だから、志を立てることが第一である。書物(道徳の教えに関する)を読んで、聖人・賢人の教えを参考にして自分の考えをまとめることが大切である。
四年生
人の精神は目にあり 故に人を観るは目においてす 胸中の正不正は眸子の瞭眊にあり。
人の善し悪しを判断するには、その人の眼を見つめて、そのひとみに注意するより、ましなことはない。
人の心に悪しきことがあれば、ひとみは隠す事ができない、心中正しければ、自然ひとみもはっきりしている。
五年生
道は即ち高し 美し 約なり 近なり 人徒らに其の高く且つ美しきを見てもって及ぶべからずと為す 而も其の約にして且つ近く 甚だ親しむべきを知らざるなり。
人の道は高大で又美しく、同時に簡約であり、手近いものである。しかし、人はその高大で美しいのを見て、とても自分にはできないことだと、始めから決めてかかるが、(それは間違いであって)道徳というものは簡単なもの、手近い物であり、又最も親しむべきものであるということを知らない。(日常生活と離れたものではない。)
六年生
冊子を披繙すれば 嘉言林の如く躍々として人に迫る 顧うに人読まず 即し読むとも行わず 苟に読みて之を行わば即ち 千万世と雖も得て尽くすべからず。
本には、よいことがたくさん書いてある。よいことを知るだけではだめです。知ったことは、実行することが大事です。
三学期
一年生
親思うこころにまさる親ごころ きょうの音ずれ 何ときくらん。
子供が親を慕う心持よりも、親が子を愛する親心は、どれほどまさったものであろう。死なねばならぬ私の便りを知って故郷の両親は、どんなに悲しむことであろう。
二年生
朋友相交わるは 善導をもって 忠告すること 固よりなり。
友達と交わるには、真心を持って、善に導くようにすすめることは、言うまでもないことである。
三年生
人賢愚ありと雖も 各々一二の才能なきはなし 湊合して大成する時は必ず全備する所あらん。
人には、それぞれ能力に違いはあるけれども、誰も一つや二つの長所を持っているものである。その長所を伸ばせば、必ず立派な人になれるであろう。
四年生
其の心を尽くす者は 其の性を知るなり 其の性を知れば即ち天を知る。
人というものは、その心の奥底までをたどり究めて行けば、その本性の善なることが知れる。
その性の善なることを知れば、その性はもと天から受けた所であるから、従って天が善を好むということが知れる。
五年生
仁とは人なり 人に非ざれば仁なし 禽獣是なり 仁なければ人にあらず 禽獣に近き是れなり 必ずや仁と人と相合するを待ちて道というべし。
仁とは、仁を行う所の人のことである。人でなければ、人徳を行うことはない。禽獣に仁はない。
故に、人徳なければ人ではない。禽獣に近い人がこれである。それで、人徳と人の身と相合するとき、道というのである。
六年生
天地には大徳あり 君父には至恩あり 徳に報ゆるに心を持ってし 恩を復すに身をもってす 此の日再びし難く 此の生復びし難し この事終えざれば、此の身息まず。
天地には、万事を生々養育するとてう大きな徳がある。また、主君と父母とには、情愛にみちた恩愛、洪大な有難いご恩がある。
天地の大徳と君父のご恩に対しては、心身の全力を尽くしてご恩報じにつとめなければならない。
「一日再び晨なり難し」という古人の句があるが、今日の日の事を成し遂げるまでは、少しの時間も無駄にせず、勉強でも一生懸命つとめ励まねばならない。
吉田松陰 1830~1859年
寺嶋忠三郎 1843~1864年
前原一誠 1834~1876年
伊藤博文 1841~1909年
久坂玄瑞 1840~1864年
赤祢武人 1838~1866年
山田顕義 1844~1892年
野村 靖 1842~1909年
高杉晋作 1839~1867年
時山直八 1838~1868年
品川弥二郎 1843~1900年
山縣有朋 1838~1922年
大和書房出版 吉田松陰全集より