後世への記録(記録シリーズ・総務篇)
第二巻
平成20年8月 米倉公会堂改装
公会堂が新築されたのは昭和45年7月5日でした、あれから33年の歳月が流れました。
その間、町内会の各種行事、子ども会、老人会等の親睦の場として広く活用され、その役割を担ってきました。
この度、下水道の供用開始に伴い調理室ならびにトイレの改装工事が行われました。
総事業費 113千円
施工 竹田建築工房
これから益々、地域の絆の場として広く活用されることが期待されます。
平成20年秋 米倉木野山神社お社、平成の大改修
この小祠(小さなお宮)は、県道児島線と国道2号高架橋との交差した所の南にあります。ここは米倉46番地で米倉公会堂のすぐ北側です。
米倉公会堂の北側用水路沿いに石の囲いがあります。この囲いを入るとすぐのところに南向に石製の地鎮様があります。その奥に、やはり南向の祠(ほこら)があります。
これが木野山様です。主な祭神は、大山祇(おおやまつみ)命、豊玉彦(とよたまひこ)命、大己貴(おおなむち)命です。
木野山神社については、つぎのような話しが伝わっています。
明治10年前後に、米倉村はじめ周辺の村村が疫病(伝染病)で苦しんだことがありました。
高梁市津川町大字今津に鎮座する木野山神社が、疫病に霊験あらたかなことを聞き、村の代表が木野山神社に参拝して、その分霊を米倉にお迎えしてお祀りをしました。
最初は、現在地より川を隔てた東にお祀りをしていたそうですが、後に今の場所にお移ししたのだそうです。
安政5年(1858年)に全国で大流行し、死者の数は30〜40万人にも上ったといわれます。
岡山では藩士が33人町人が166人亡くなったとの記録がありますので分霊勧請はこの時代ではなかったかと想像されます。
明治になってからもコレラは猛威をふるい、明治10年(1877年)、明治12年、明治35年と大流行しました。この時も木野山神社の御輿(みこし)をこしらえて、米倉から当新田の七番・六番を通り三軒屋あたりまで練り歩いたそうです。これを機にさすがの猛威をふるったコレラも終わりを告げたと伝えられています。
この度、お社の台座を含め改修を行うこととなりました、改修に先立ち9月15日午後7時から神官を招き、ご神体の「遷座祭」が執り行なわれました。
改修工事の期間、ご神体を西市天満宮にお遷しする行事です。
古式ですが、大変珍しい儀式ですのでご紹介し後世に残します。
「遷座」とは、神仏の座を他に移すことをいいます。通常、遷座は夜間に行われるのだそうです。
米倉木野山様の遷座祭も日暮れを待って開始されました。
その日はあいにく小雨で、神事の後、白木箱に厳重に納められたご神体は白布に包まれ、独特のマスクと白手袋を付けた神官に抱かれ、米倉講中の先導を受けながら、雨の中を西市天満宮に向われました。
西市天満宮の神殿は既に真っ暗闇で、ほのかな燈火の下、 厳粛なムードが高まる中で、宮入・お祓い等々一連の神事が粛々と進められ遷座祭は無事終了しました。
仮殿遷座祭
米倉木野山神社に於いて
1、修秡
1、斎主一拝
1、斎主祝詞を奉す
1、遷御
西市天満宮に於いて
1、入御
1、神饌を供す
1、斎主祝詞を奉す
1、玉串を奉りて拝礼
1、神饌を撤す
1、斎主一拝
米倉木野山様 |
西市天満宮 |
改修工事
大工の技で平成の大改修が行われました。
工事期間 平成20年9月20日〜10月12日
総事業費 壱拾八萬六千円
施工 山住建設有限会社
大工棟梁 吉原清六
改修工事の中で、ご神体の台座に当時の記録が残されていました。
明治24年1月新調
奉再建當米倉村中寄付
代償 金七円五拾銭
記録によると疫病コレラが猛威をふるったのは「明治10年、明治12年、明治35年に大流行した」とされており、当時の村人の祈りが感じられます。
この度の改修の記録を留めるべく、台座に内宮の伏見宮司の書による木板をお納めしました。
本殿遷座祭
平成20年11月23日、お社の改修が終わり再びご神体をお迎えする「遷座祭」が行われました。
午後6時、秋の日はとっぷりと暮れ薄明かりの中ご神体は西市天満宮から米倉木野山様へとお迎えしました。
西市天満宮に於いて
1、修秡
1、斎主一拝
1、斎主祝詞を奉す
1、遷御
米倉木野山神社に於いて
1、清祓
1、入御
1、神饌を供す
1、斎主祝詞を奉す
1、玉串を奉りて拝礼
1、神饌を撤す
1、斎主一拝
直会(なおらい)
直会(なおらい)とは、神事の最後に、神事に参加したもの一同で神酒を戴き神饌を食する行事です。
一般には、神事が終わった後の宴会と解されていますが、本来は神事を構成する行事の一つです。
これからも地域の守り神様として伝統を守り行事が引き継がれて行くことを願ってやみません。
ごみ分別収集 | ||
ごみ有料化前 | ||
ごみ有料化後 | ||
ごみ不法投棄 |
母校・2009年の春
昭和7年(1932)笹が瀬川の改修工事が着手され、7ヶ年の歳月と115万円の国費を費やして出来たのが田中地先の干拓地である。
干拓地は茫々たる葦野と化し、若者は出兵し小学生まで動員して開墾し食糧増産に努めた。
昭和22年学制改革と共に新しく生まれたのが御南中学校である。
小学校を六ヶ年とし、高等科を廃して中学校を三ヶ年、これを義務教育とした六・三制の中学校である。
御南中学校は昭和22年(1947)4月1日、御津郡大野村、今村、芳田村、白石村、四ヶ村組合立中学校として設立された。
昭和22年4月28日、今小学校において入学式が行われた、初代校長 常光正雄先生。
昭和22年5月5日授業が開始された。
1年生教室は今村小学校、132名
2年生教室は辰巳公会堂、53名
3年生教室は今村公会堂、32名であった。
その後、笹が瀬川廃川地を新校舎建設地として決定し、父兄の奉仕活動によって整地が行われ昭和23年5月30日、陽光さん然と照り輝くこの日、新校舎落成式が挙行された。
そして、昭和24年10月6日、第二期工事南館が落成、昭和25年6月7日、文部省モデルスクールとして指定された。
昭和27年4月1日、四ヶ村が岡山市に編入、岡山市立御南中学校と改称、その後、急速な生徒数の増大に伴い分離・新設が進められ、昭和59年4月1日、岡山市立芳田中学校が開校した。
思い出の校舎 | ||
平成9年4月28日、創立50周年記念式典挙行。 平成18年9月10日、創立60周年記念「自主自立広場」完成。 |