『京橋火の見櫓』が登録文化財に
>>貴重な写真 昭和9年9月21日午後3時 旭川櫻の馬場決壊 他
ここをクリック 京橋火の見櫓が現地に移転する前の写真 (写真提供:津下様 デジタル化作業:松浦様) >>橋本町(単位町内会ホームページ)の防災ページに多数の写真を掲載
岡山市の旭川の京橋西詰めの堤防上に建つ『京橋火の見櫓』が登録有形文化財に決まりました。
1月20日決定の知らせを聞いた地元町内会や関係者の方々は,生まれ育った生活の地域にある『火の見櫓』に対する存在感と思い入れをあらためて再確認し,今後の保存,顕彰に向けての決意を新たにしています。
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地域の関係者の方々(敬称略)
吉田敏治 (川崎町町内会長)
松浦満 (岡山市消防団内山下分団分団長)
小野浩一 (内山下地区連合町内会長)
大島正勝 (備前岡山京橋朝市実行委員長)
各町内会有志一同
橋本町(単位町内会ホームページ)
岡山市京橋町(旧橋本町)では単位町内会のホームページの中でこちらのページに(岡山市教育委員会文化財課より京橋警鐘台の詳しい資料を提供して頂き原文のまま掲載)しています。同ホームページの京橋警鐘台写真はこのページです。
<沿革>
この櫓は岡山市内では最大規模。1945年の岡山空襲,そして火災や旭川増水,水害も知らせたと地元の人たちは伝えています。近年に至り『火の見櫓』は老朽化が進行,櫓の役割が消えていった。そして岡山市消防局が櫓の撤去を検討をしたところ,この話を聞いた地元町内会の川崎町を中心に,内山下地区連合町内会から2004年,岡山市に保存を求める嘆願書が提出されました。請けた岡山市教育委員会文化財課では調査を行い,「鉄骨をリベットで止めた単純な構造は当時の技術をよく伝える。周辺の京橋や京橋水管橋と合わせ,岡山の近代化を代表する光景でもある。」(山陽新聞2006/1/15エリア総合29面紙より)と評価,登録文化財申請を行うこととなりました。
<歴史>
櫓は1924年(大正13年)完成。建築は「坪田利吉(1870~1944)」によってなされ,行商をしながらその財を多くの慈善事業に投じていました。その中で,彼の晩年に建てられた櫓は12基(4基が現存2006/1/21現在)といわれ,すべての費用は私財で支払われました。「坪田利吉」はよろず屋「万納屋」を営んでいました。彼は明治3(1870)年,広島県府中市生まれ。彼は毎日,大八車(人や馬で曳く,大きな車輪が2輪あり,物資を積載する貨物用の乗り物)に日用品や食料品を積み,岡山市内で行商に励みました。彼は売上金を基にして数多くの慈善事業に取り組みました。その中でも特に力を注いだのが『火の見櫓』の建設でした。岡山市教育委員会文化財課の資料によると「明治36年に岡山市船頭町、同小原町(現・清輝本町)に無料宿泊所を開設したのを皮切りに、雨傘2,200本を小中学校に寄附、西川に第一~第三万納屋橋を架けるなどの慈善事業を行った。警鐘台については大正11年に旧県庁前(現・天神町)、旧専売局前(現・下石井)に2基の警鐘台を建てたのをはじめ、京橋警鐘台も含め昭和12年の引退までに12基の警鐘台を寄附した。」と記録されています。
<付録>
◇京橋警鐘台の概要(岡山市教育委員会文化財課の資料より)
京橋警鐘台(内山下分団警鐘台)は,西国街道,岡山城下の東の出入り口であった京橋西詰に立つ大型の警鐘台である。大正13年に坪田利吉が天瀬・野崎鐵工所に造らせたものといわれ,もとは現在地よりやや南に建てられていたが,戦後の周辺整備の際,現在地に移された。
周辺は登録有形文化財「京橋水管橋」,選奨土木遺産「京橋」をはじめ,旧岡山港(京橋荷揚場跡)の名残である石段や斜路などが残り,岡山の近代化を代表する景観を醸し出している。
高さ21.1m,四脚の山形鋼製の鉄塔で,5mm×100mmの山形鋼を高さ約8.6mでつなぎ,5mm×50mmの山形鋼の横材を1.3~1.6m間隔で渡している。横材間はφ20mmのブレースをφ200mmの鋼管を切断したリング式ターンバックルでつなぐ。最上部には一辺2.0mの四角形の望楼をかけ,一辺2.0mの平面四角形の鉄板製屋根をのせている。屋根上には飾りの付いた尖塔をのせている。
なお,現在は外され,岡山市消防団内山下分団機庫で保管されているが,高さ600mmほどの警鐘がつるされていた。警鐘には 「大正十一壬戌年十一月」
「万納屋事 坪田利吉」の銘がある。
◇表・坪田利吉寄附の警鐘台(岡山市教育委員会文化財課の資料より)
名称(分団) |
所在地 |
構造 |
規模 |
建築年 |
|
旧県庁前 |
現・岡山市天神町 |
不明 |
不明 |
大正11年 |
解体 |
旧専売局前 |
現・岡山市下石井 |
不明 |
不明 |
大正11年 |
解体 |
七日市(岡南) |
岡山市七日市東町 |
山形鋼・三脚 |
約10m |
大正12年 |
現存 |
七日市 |
不明 |
不明 |
不明 |
大正12年 |
解体 |
京橋(内山下) |
岡山市京橋町 |
山形鋼・四脚 |
21.1m |
大正13年 |
現存 |
天瀬 |
不明 |
不明 |
不明 |
不明 |
解体 |
岡山駅前 |
不明 |
不明 |
不明 |
昭和3年 |
解体 |
旭東(旭東) |
岡山市門田屋敷本町 |
山形鋼・三脚 |
約10m |
不明 |
現存 |
三野 |
岡山市三野 |
山形鋼・四脚 |
約20m |
不明 |
解体 |
南方(南方) |
岡山市富田町 |
山形鋼・四脚 |
約12m |
昭和5年(鐘銘) |
現存 |
ほか、2基については記録がなく、所在、現状等不明。 |
|
表・坪田利吉寄附の警鐘台 |
◇登録文化財に決まった4件について(山陽新聞2006/1/21・28面紙より)
- 旧京橋火の見櫓(岡山市京橋町)
坪田利吉が1924年(大正12年)に建造,地元消防団に寄付,高さ21メートル,鉄骨造り,最上部に2メートル四方の望楼あり,地元のシンボルとして存在し愛され続けている。
- 真鍋家住宅(笠岡市真鍋島)
登録は明治,大正期の主屋,旧郵便局舎など五棟,木造平屋と二階建ての260平米,真鍋家は平安末期から続く代々地主として,明治以降は郵便局長を務めた。
- 定金家住宅主屋(金光町大谷)
1917年(大正6年)ごろ,金光教本部の門前町付近に歯科医院兼住宅として建つ,屋根窓飾りのデザインが人目を引く,木造二階90平米の西洋建築。
- 加茂川歴史民族資料館(吉備中央町下加茂)
1897年(明治30年),加茂葉たばこ取扱所として建つ,荷置き場,包装場などがあった,県中部の特産の葉たばこに関連する産業遺産として貴重な建築物,木造平屋476平米の大規模施設。
<資料>
◆登録有形文化財について - Wikipediaへリンク
本文より:登録有形文化財(とうろくゆうけいぶんかざい)は1996年(平成8年)の文化財保護法改正により創設された文化財登録制度に基づき文化財登録原簿に記載された有形文化財のこと・・・。
◆文化財 - Wikipediaへリンク
『昭和9年9月21日 岡山水害』 1934年室戸台風により旭川が氾濫
>>現在の火の見櫓の姿へリンク(2006年1月20日登録文化財決まる) >>橋本町(単位町内会ホームページ)の防災ページに多数の写真を掲載
▼写真の右側が川上で方位は北,左側が川下で方位は南,正面中央に「警鐘台」,それが大正13年に建てられた『京橋火の見櫓』の姿です。戦後の周辺整備の際,現在地に移されました。写真左には「水管橋」が見えています。その川下側が「京橋」です。

▼上の写真は,原版の一部を拡大したものです。原版は下の写真です。

◆昭和9年9月21日午後3時岡山市花畑堤防陥設(京橋・中橋・西中島北側遠景)

◆昭和9年9月21日午後3時岡山市相生橋西詰

◆昭和9年9月21日午後3時岡山市内山下桜の馬場決壊の惨状

◆昭和9年9月21日午後3時岡山市柳川筋

◆昭和9年9月21日午後3時岡山市中之町南詰
<資料>
◆知っていますか? 今に残る大洪水の記録 (国土交通省ホームページ)
http://www.okakawa-mlit.go.jp/hyousiki/page1.htm
(光延英夫氏 元就実学園就実高等学校教諭と実習生による平成13年作成の文中より引用)1934年の昭和9年9月21日に911.6hpaという猛烈な強さの台風が室戸岬付近に上陸し、淡路島を通って大阪に進みました。この台風の影響は凄まじく岡山県内で死者145人、負傷者348人を出し、家屋4560戸が全半壊しました。岡山市の雨量は73.6ミリでしたが、旭川の上流に降った雨が、半日後に流れてきて増水し、台風が通過した後に岡山市内は大洪水に見まわれました。その当時に内務省などが台風後、岡山市内外の計数十カ所に設置された洪水水位を表す標識は数こそ少ないものの現在でも就実学園体育館(同市弓之町)、中国銀行本店(同市丸の内)、NTTクレドビル岡山店(同市中山下)などの岡山市内に残されています。
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