京橋警鐘台についてと文化財申請について−その一
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京橋警鐘台の概要・所見

1,京橋警鐘台の概要
 京橋警鐘台(内山下分団警鐘台)は、西国街道、岡山城下の東の出入り口であった京橋西詰に立つ大型の警鐘台である。大正13年に坪田利吉が天瀬・野崎鐵工所に造らせたものといわれ、もとは現在地よりやや南に建てられていたが、戦後の周辺整備の際、現在地に移された(※1)。周辺は登録有形文化財「京橋水管橋」、選奨土木遺産「京橋」をはじめ、旧岡山港(京橋荷揚場跡)の名残である石段や斜路などが残り、岡山の近代化を代表する景観を醸し出している。
 高さ21.1m、四脚の山形鋼製の鉄塔で、5mm×100mmの山形鋼を高さ約8.6mでつなぎ、5mm×50mmの山形鋼の横材を1.3〜1.6m間隔で渡している。横材間はφ20mmのブレースをφ200mmの鋼管を切断したリング式ターンバックルでつなぐ。最上部には一辺2.0mの四角形の望楼をかけ、一辺2.0mの平面四角形の鉄板製屋根をのせている。屋根上には飾りの付いた尖塔をのせている。
 なお、現在は外され、岡山市消防団内山下分団機庫で保管されているが、高さ600mmほどの警鐘がつるされていた。警鐘には 「大正十一壬戌年十一月」 「万納屋事 坪田利吉」の銘がある。

2,坪田利吉と警鐘台
 坪田利吉は明治3(1870)年、広島県府中市に生まれ、岡山城下を行商の傍ら、私財を慈善事業に費やしたことで知られている。利吉は、明治36年に岡山市船頭町、同小原町(現・清輝本町)に無料宿泊所を開設したのを皮切りに、雨傘2,200本を小中学校に寄附、西川に第一〜第三万納屋橋を架けるなどの慈善事業を行った。警鐘台については大正11年に旧県庁前(現・天神町)、旧専売局前(現・下石井)に2基の警鐘台を建てたのをはじめ、京橋警鐘台も含め昭和12年の引退までに12基の警鐘台を寄附した(※2)。
名称(分団) 所在地 構造 規模 建築年
旧県庁前 現・岡山市天神町 不明 不明 大正11年 解体
旧専売局前 現・岡山市下石井 不明 不明 大正11年 解体
七日市(岡南) 岡山市七日市東町 山形鋼・三脚 約10m 大正12年 現存
七日市 不明 不明 不明 大正12年 解体
京橋(内山下) 岡山市京橋町 山形鋼・四脚 21.1m 大正13年 現存
天瀬 不明 不明 不明 不明 解体
岡山駅前 不明 不明 不明 昭和3年 解体
旭東(旭東) 岡山市門田屋敷本町 山形鋼・三脚 約10m 不明 現存
三野 岡山市三野 山形鋼・四脚 約20m 不明 解体
南方(南方) 岡山市富田町 山形鋼・四脚 約12m 昭和5年(鐘銘) 現存
ほか、2基については記録がなく、所在、現状等不明。
表・坪田利吉寄附の警鐘台
(岡山市教育委員会文化財課から頂いた資料を原文のまま載せています。)

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