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学区内の建造物(火の見櫓)

火の見櫓 今昔

昭和20年代初頭の頃までは、学区内のほとんどの村には火の見櫓警鐘台が設置されていた。

元々は、火災や洪水を村人に報せる目的で建立され、構造としては四角鉄塔や梯子状の自立木柱、中には1本木柱の櫓もあったようだが、いずれも頂上付近には半鐘といわれる吊り鐘が取り付けられていた。

戦時中は青年団員の警鐘係が決まっていて、駐在所から村役場へ警戒警報が伝達されると警鐘係は直ちに福泊の鐘楼に登り、「− ・・」(カ〜ン カンカン)、空襲警報だと「− ・・・・」(カ〜ン カンカンカンカン)と半鐘を打ち鳴らし、各村落の半鐘もこれに和して鐘の音が村落の虚空に響き渡り、学童は裏山へ、村民は防空壕へと身を潜めたものだ。

火事のときは村の消防団員が村の櫓に上り半鐘を乱打したものだが、思えば今と違って人家はまばらで、その上世の中が静かだったのか、鐘の音は結構遠くまで聞こえていたようだ。

半鐘は、戦時下において「空襲警報」を報せるという役割からか供出(鉄や銅は、軍艦や大砲を作るため、お寺の鐘も家庭の鉄火鉢も、お国のために提供するという当時の国策)を免れたようだが、鉄骨製の火の見櫓はことごとく解体され、供出されてしまった。

供出のため取り壊されて拠りどころを失った半鐘は、あるものは檜丸太製の櫓(「半鐘杭」と呼んでいた)の頂上付近に取り付けられて火災報知や戦時下の空襲警報報知の役目を果たし、またあるものは戦後になって再建された鉄塔やコンクリート柱に拠り所を変え、はたまた遂に拠り所を失った半鐘の多くは、町内の公会堂や倉庫に保管されて現在に至っている。

半鐘杭のうち、現存しているのは円山にあるものだけとなり、鉄塔(海吉出村・山崎)、コンクリート柱(海吉本村)を含めた4体の火の見櫓の頂には、半鐘と並んで(海吉本村の半鐘は取り外してある)町内放送用のトランペットスピーカーが鎮座していて、世の移り変わりを物語っている。

この「火の見櫓紹介」の企画をご覧になった学区民が、薄煙たなびく閑静な農村風景のなかに8基の火の見櫓が競うように建ち並ぶその下で、半鐘の響きに怯えながらもひたむきに生きた村人たちの息吹を彷彿としていただければ幸甚である。

− お詫びとお願い −

本件企画に当たっては電子町内会の総力をあげて取材しましたが、往時を知る「古老」は少なく、また、記憶も曖昧で、必然として「不明」「不詳」の部分が多くなっています。

読者のなかで、これら「火の見櫓(半鐘杭を含む)」について新しい事実をご存じの方がいらっしゃいましたら、下記までお知らせください。

  E−Mail  tdc-2119@po1.oninet.ne.jp (こちらをクリック)

(文:小野田)

各村落の火の見櫓・警鐘台 今昔概覧
(2013年9月現在)
  火の見櫓・警鐘台(半鐘杭を含む) 半鐘の所在
往時 現在 櫓頂上付近 屋内保管
本村 四角鉄塔 → 木製四角鐘楼 コンクリート柱 ○(公会堂)
中村 一本半鐘杭 → 木製梯状鐘楼 なし ○(公会堂)
出村 (火災・空襲警報用) 四角鉄塔 四角鉄塔
(水防警鐘用) 木製梯状鐘楼 なし なし(盗難)
福吉 四角鉄塔 → 木製三角鐘楼 なし ○(倉庫)
福泊 木製三角鐘楼 → 四角鉄塔 → 木製梯状鐘楼 なし ○(倉庫)
山崎 四角鉄塔 → 木製梯状鐘楼 三角鉄塔
円山 四角鉄塔 木製三角鐘楼
木製梯状鐘楼 なし ○(倉庫)
池の内 木製梯状鐘楼 なし なし(経緯不明)

(下図において、■は現存する火の見櫓等、□は既に撤去されたものを表します。)

火の見櫓のイラストマップ 海吉本村の火の見櫓の記述ページを表示します。 海吉中村の火の見櫓の記述ページを表示します。 海吉出村の火の見櫓の記述ページを表示します。 海吉出村の水防警鐘台の記述ページを表示します。 海吉福吉の火の見櫓の記述ページを表示します。 福泊の火の見櫓の記述ページを表示します。 山崎の火の見櫓の記述ページを表示します。 円山の火の見櫓の記述ページを表示します。 円山嶽の火の見櫓の記述ページを表示します。 湊池の内の火の見櫓の記述ページを表示します。

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海吉本村

火の見櫓 現在の状況 往時の状況
(全景写真)
海吉本村の火の見櫓全景
(頂部写真)
海吉本村の火の見櫓の頂部
所在地

海吉1551

海吉本村公会堂敷地の北側

海吉本村橋東詰めの北側(現在は歩道)
地上高等
地面〜見張台5.5m
見張台〜小屋根2.0m
全高8.0m
不明

(半鐘) ※2

組成

鉄+銅の合金

全高

約37cm
(吊り手を含まず)

開口部外径

約27cm

構造
コンクリート製柱
屋根鉄製
見張台鉄製

戦前:四角鉄塔 ※1

戦後:木製四角鐘楼 ※1

海吉本村の半鐘 建造時期

昭和48年頃

本村公会堂改築時に建造し、移築された。

不明

戦前より彼の地にあった。

主用途

当初:火災報知

現在:放送塔

空襲警報報知

火災報知

  1. ※1 写真はないが、戦前から四脚鉄塔の櫓が建っており、戦時中に鉄類の供出により四脚木塔に建て替えられた。(町内古老の話)
    ※2 平成7年頃まで半鐘は櫓に吊り下げられていたが、吊り下げ部分や見張り台の腐食が進み、現在は公会堂の床の間に鎮座している。

(文:太田、写真:横地)

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海吉中村

火の見櫓 現在の状況 往時の状況
海吉中村の半鐘

(半鐘) ※3

組成

鉄+銅の合金

全高

約41cm
(吊り手を含まず)

開口部外径

約30cm

現存する火の見櫓はない。 所在地

【当初】

現在の湯浅秀夫様宅(海吉923)先の倉安川を挟んだ向かいの田の中にあったという。

【その後】

海吉中村公会堂の前の倉安川の橋を渡った南土手(現在はごみステーションがある)に半鐘杭があった。

地上高等

【当初】

約4メートル

【その後】

他の村落のものと同様に7〜8メートルはあったと思われる。

半鐘の内面

内面の刻字 → 半鐘の施主銘

構造

【当初】

木製の電柱状の柱に足場が付いており、頂上付近の横に突き出た鉄棒の先に半鐘が吊り下げられていた。

【その後】

基部を御影石の柱で固定した二脚檜丸太の梯状の半鐘杭があり半鐘が吊り下げられていた。

建造時期

【当初】

不明。また、公会堂向かいの倉安川土手への移設時期も不明。

【その後】

戦時中からあったというが、昭和61年の公会堂建替え時に撤去した。

主用途
戦時中:空襲警報報知・火災報知
戦後:火災報知
  1. ※3 中村公会堂に保管・伝承されているが、内面に刻まれた「木村良吉」の名を知る者もなく、また、なぜ戦後の日付(昭和23年)なのか、戦前の半鐘はどうしたのかは不明である。

(文:小野田、写真:矢尾)

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海吉出村

火の見櫓 現在の状況 往時の状況
(全景写真)
海吉出村の火の見櫓全景
(頂部写真)
海吉出村の火の見櫓の頂部

(旧櫓の痕跡)
海吉出村の旧櫓の梯子跡
所在地

海吉1791

海吉出村公会堂敷地の北東の隅

現火の見櫓と同位置に赤茶色の四角鉄塔の火の見櫓(建造時期不明)があったが、太平洋戦争の末期ごろ、供出令により解体〜供出した。

鉄塔の基部に、旧火の見櫓の鉄製昇降梯子の痕跡が残っている。

先代鉄塔供出から現鉄塔再建までの間、木製の半鐘杭があったかどうかは不明。

地上高等
GL〜半鐘櫓10.0m
櫓〜小屋根2.0m
風見鶏1.5m
全高13.5m
構造

L綱、鋲ナット止め、自立四脚鉄塔

シルバー塗装(平成13年塗り直し)

海吉出村町内会の半鐘

(半鐘)

組成

鉄+銅の合金

全高

約42cm
(吊り手を含まず)

吊り手

約9cm

開口部外径

約30cm

建造時期

昭和20年代前半の頃と思われるが、詳細不明。出村の四角鉄塔の火の見櫓としては二代目。

主用途
戦時中:空襲警報報知・火災報知
戦後:火災報知
現在:放送塔

空襲警報報知

火災報知

(文:小野田、写真:薄・小野田)

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水防警鐘台 現在の状況 往時の状況

(半鐘)

カンカンというよりもジャンジャンという独特の音色の半鐘だったが、戦後の混乱期に盗まれてしまった。

現存する水防警鐘台はない。 所在地 百間川堤防の近く、現在の白神 勇様宅(海吉1754−4)の南の道路南縁(南北悪水路のすぐ東)にあった。
地上高等 8メートル前後はあっただろう。

(往時の全景写真)

往時の海吉出村の水防警鐘台全景

木部が朽ち倒壊の恐れがあったため、昭和40年代の後半に撤去され、現在ではその痕跡もない。

構造

基部は花崗岩の石柱が土中深く埋められそれに檜(?)丸太がボルト・ナットで固定された自立・梯子状の木製構造物

往時の海吉出村の水防警鐘台の様子

垂木製ステップが7段、最上部は直径20mmぐらいの鉄の棒が丸太を貫通〜設置され、U字型に細工された先端近くに半鐘が吊り下げられていた。

建造時期 大正から昭和にかけての頃と思われる。筆者が子どものころ(昭和10年代後半の頃)には、まだシャンとしたものが建っていた。
主用途

水防警報用

当時は県道西大寺線のために堤防が切りとおしになっていて、百間川増水の都度消防団が呼集されて樋板を嵌めていた。

(文・写真:小野田)

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海吉福吉

火の見櫓 現在の状況 往時の状況

海吉福吉の半鐘

半鐘の刻字(鉤の中にカ、別製)

(半鐘) ※4 ※5

組成

鉄+銅の合金

全高

約40cm
(吊り手を含まず)

吊り手

約10cm

開口部外径

約27cm

重さ

18kg

現存する火の見櫓はない。 所在地

経緯

【初代】

現在大師堂がある場所(海吉2175−5小野金吾様宅西側)のすぐ西に建っていた。

昭和18年ころ、軍から鋼材の供出命令を受け解体した。

【二代】

その後、同一場所に丸太2本組の火の見櫓を建てて半鐘を取り付けて使用していたが、木材が腐るなど老朽化が進んだことから撤去した。

【三代】

昭和39年ごろ、 海吉福吉公会堂敷地(海吉2159−5)の南西角に丸太3本組の火の見櫓を建てて半鐘を吊るし使用していたが、平成18年の公会堂の改築に伴い解体、撤去した。

(大師堂横の初代櫓の梯子基部)

初代櫓の基部とL鋼の切断跡
L鋼の切断跡がくっきり残っている。

(旧公会堂と三代目櫓)

旧公会堂と三代目櫓

地上高等
【初代】最上部まで12m位
【二代】   同   10m位
【三代】   同   10m位
構造

【初代】

四角鉄塔

四本足の中央に梯子があり、上部の半鐘を叩く所には2〜3人が上がれるスペースを設け、その上に屋根を設置

【二代】木製梯状鐘楼
【三代】木製三角鐘楼
建造時期
【初代】明治のころと思われる。
【二代】昭和18年ごろ
【三代】昭和39年ごろ
主用途
【初代】空襲警報報知・火災報知
【二代】空襲警報報知・火災報知
【三代】火災報知
  1. ※4 半鐘の下部に一箇所肉眼でやっと確認することが出来る程の小さなひびが入っているが、これは、明治か大正時代に、台風の強風にあおられて吊り下げていた半鐘が金具から外れ地上に落下してできたものである。
    (古家海吉福吉町内会長、佐藤海吉福吉町内会副会長、三井前海吉福吉町内会長(H24聞き取り))
    ※5 平成18年4月ごろに火の見櫓を撤去した際、半鐘は倉庫で保管し今に至っている。

(文・写真:長畑)

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福泊

火の見櫓 現在の状況 往時の状況
福泊の半鐘

(半鐘) ※6

組成

鉄+青銅の合金

全高

約48cm
(吊り手を含まず)

開口部外径

約28cm

現存する火の見櫓はない。 所在地

当初は中区福泊329(JA富山支所の東)の小山の上(※1)にあったが現在の福泊バス停(地蔵堂の東)の地積に移設(※2)、その後同所に再建(※3)した。

地上高等

いずれも、10m未満であったと思われる。

構造
※1丸太3本組、木製
※2四角鉄塔
※3丸太2本組、木製

(供出以前の四角鉄塔の雄姿)

往時の福泊の火の見櫓全景

建造時期

※1

大正時代、又はそれ以前の建造

昭和初期、新県道の建設時に小山を切り崩したのを機に撤去した。

※2

昭和初期

昭和10年代後半に解体〜供出したものと思われる。

※3

※2の後継として建造

昭和63年、富山分団消防機庫建設(ホース乾燥塔併設)を機に撤去した。

主用途

空襲警報報知

火災報知

  1. ※6 半鐘は町内会倉庫で保管し今に至っている。

(文:小野田、写真:薄)

山崎

火の見櫓 現在の状況 往時の状況
(全景写真)
山崎の火の見櫓全景
(頂部写真)
山崎の火の見櫓の頂部
所在地

山崎86−1

山崎本町公会堂敷地の北西の隅

現在の位置に赤茶色の四角鉄塔があったが、戦時中の供出令により解体〜供出した。

その後は、同じ場所に木製梯状の鐘楼が建てられた。

地上高等
全高9.2m
構造 三角鉄塔 ※7
山崎の半鐘

(半鐘)

全高

約38cm
(吊り手を含まず)

開口部外径

約28cm

建造時期 昭和20年代の後半頃と思われるが、詳細不明
主用途

当初:火災報知

現在:放送塔

空襲警報報知

火災報知

  1. ※7 山崎の住人三好兵三氏(当時岡山製紙勤務、後に昭和40年代前半頃町内会長)が仕事の傍ら設計〜施工したものである。

(文・写真:薄)

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円山

火の見櫓 現在の状況 往時の状況

(全景写真)

円山の火の見櫓全景

(消防信号)

消防信号の種別を記したプレート

木柱の基部近くに表示してある。

(頂部写真)

円山の火の見櫓の頂部

所在地

円山16−9地先

円山川の堤防路肩部

岡山市中区円山24−2

円山公会堂敷地

地上高等
全高8.8m

円山公会堂の敷地内に四角鉄塔があったが、戦時中の供出令により解体〜供出した。

(半鐘)

全高

約42cm
(吊り手を含まず)

開口部外径

約29cm

円山の半鐘

構造 木製三角鐘楼
建造時期 昭和30年代
主用途

当初:火災報知

現在:放送塔

空襲警報報知

火災報知

(文・写真:薄)

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円山嶽

火の見櫓 現在の状況 往時の状況
円山嶽の半鐘

(半鐘) ※8

全高

約42cm
(吊り手を含まず)

開口部外径

約30cm

製造年月

大正15年2月

現存する火の見櫓はない。 所在地 円山嶽公会堂
地上高等 不明
構造 木製梯状鐘楼
半鐘の施主銘

昭和26〜7年頃行われた嶽公会堂の屋根葺き替え工事の写真に写っている火の見櫓

往時の円山嶽の火の見櫓全景

  1. ※8 半鐘は町内会倉庫で保管し今に至っている。

(文・写真:小野田・薄)

湊池の内

火の見櫓 現在の状況 往時の状況

(半鐘)

湊池の内の倉庫等になく、消息不明。

ご多聞に漏れず、供出したのかも・・・。

(古老言)

現存する火の見櫓はない。 所在地 湊409地先(大池の東北、「池の内」信号のある変則十字路の南東の地積=現在、自転車置き場2棟あり)に往時は公会堂や消防ポンプ置場があり、その地に立っていた。
地上高等

3間程度≒6メートル前後だった。

構造 2本丸太の梯子状のもので、頂上付近には半鐘が取り付けてあった。
建造時期 不明。大正10年生まれの古老が小学生当時(昭和4〜5年当時)にはすでに建っていて消防ホースの干し場に使っていたが、戦後間もなく(昭和20年代初頭ごろ)撤去したらしく、復員(戦争が終わって故郷に帰ること)したときには既になかった。
主用途

空襲警報報知

火災報知

  1. 古老 : 前 湊池の内町内会長 西山金弥氏(大正10年生まれ)(平成25年9月記)
    (注) この火の見櫓は、当時の上道郡平井村大字湊字池の内分団の管理下にあり、存在した場所も富山村ではなく平井村内でしたが、その場所も現在は岡山市中区湊に、かつ、富山学区地内となったので、起稿時点で「富山学区地内にある(あった)火の見櫓」の一つとして紹介するものです。

(文:小野田)

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学区紹介