【注】 雄町米は雄町米振興会会長の服部晃一さん(賞田町内在住)と、その会員のもとで作られています。会員は現在
高島地区で60名、合計30町歩に作付けされ、収量は約14トンあります。なお、賞田地区の会員は10名です。
場 所 岡山市雄町(雄町米発祥の地記念碑所在)
行き方 宇野バス東岡山行「雄町中」下車北へ雄町の冷泉の北より
説 明
昨今の酒販店の店頭には、大吟醸酒・吟醸酒といって高級高価な清酒が冷蔵ショーケースに大切に陳列されているが、原料米の表示を見ると、決まって雄町米100%使用と表示されている。
高級清酒の原料として珍重されている雄町米と当高島地区雄町との係わり合いであるが、今から百四十年程前の安政六年、備前国上道郡雄町村(現在の岡山市雄町 当高島地区雄町 )の篤農家岸本甚造が伯耆大山の牛馬市からの帰途、道端の田んぼに大粒のモミをつけた稲穂を垂らした稲があるのを見つけた。粒の大きさといい稲の丈といい、飛び抜けて立派な変わり種のように見えた。彼はひそかにその稲穂を持ち帰り、自分の田んぼで栽培したところ、翌年秋には伯耆の国で見たと同じ大粒のモミが実った。そこでこの品種に二本草と名付けたが、篤農家岸本甚造の住む村にちなんだ「雄町」が略称となって現在に至っているというエピソードがある。
この雄町米は、大粒の上、心白(米の中心に見られる白い部分)が大きく、酒づくりにはぴったりの品種ということで、見る見るうちに近郊の農村に栽培者が広がった。その後、大正時代には県農業試験場によって純粋淘汰が行なわれ、名実ともに酒米として全国に知られるようになった。
岡山県下の雄町米の栽培は、明治初期に本格的に始まり末期には県北を除き全県下に普及した模様で、最高作付面積は、大正6〜8年頃で9000ヘクタールに達したということである。戦中・戦後は激減していたが、食料事情の好転と共に徐々に作付面積が増加し、平成元年には、160ヘクタール、平成4年200ヘクタール平成12年420ヘクタールとなっている。
百年以上前に発見され、現在も栽培されている品種は全国でも「雄町」だけで、粒の大きさ、稲の丈の長さと極めて優れた特性を持つ品種と言えるが、反面、収量面に劣り、耐倒伏性・耐病性に弱く栽培の難しさもあって、新たに導入された「山田錦」等に押され作付面積は伸び悩んでいる。
米の粒の大きさ・穂の長さの対比表
区 分 | 雄町米 | 朝日米 | コシヒカリ | あきたこまち | 朝日米(左)と雄町米(右) | |
玄米千粒重量 (g) | 27.2 | 24.0 | 22.1 | 22.5 |
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稲の丈の長さ (cm) | 141.4 | 117.4 | 119.2 | 108.2 | ||
穂の長さ (cm) | 23.4 | 20.4 | 18.3 | 19.2 | ||
桿の長さ (cm) | 118.0 | 97.0 | 101.0 | 89.0 |
参考: 対比表のデーターは、農業試験場調べ
山陽新聞社刊「岡山の酒」
石碑碑文表面 額字 岡山縣知事 従四位勲三等 横溝光暉閣下書 翁姓ハ岸本名ハ甚造寛政元年二月五日本村大字雄 町ニ生レ慶應二年八月二日七十八歳ヲ以テ逝ク資 性温良父祖ノ業ヲ承テ耕耘ニ従ヒ孜々トシテ倦ム 所ヲ知ラス夙ニ稲作ノ増収ハ種子ノ良否ニ俟ツヘ キヲ念ヒシカ偶安政六年秋伯耆大山ニ詣ルノ途次 路傍ノ田園ニ良穂ヲ認メ之ヲ移植シテ鋭意改良ニ 努メ苦心惨憺漸新種雄町種ヲ見ルニ至ル米質優良 粒形大ニシテ味亦優レ殊ニ酒造米トシテ最愛用セ ラレ其聲價全國ニ普シ文化未開ケス人智幼キ時一 小農ノ身ヲ以テ無援自彊克ク此難事ヲ完遂シ百世 ノ下尚世人ヲシテ景仰措ク能ハサラシムルモノ真 偉ナリト謂フヘシ昭和五年十一月畏クモ 今上陛下本縣行幸ノ御砌精選米ノ 天覧ヲ賜ヒタルハ無上ノ光栄ト言ウヘシ茲ニ有志 者相謀リ碑ヲ建テ其遺徳ヲ頌ス 昭和十五年十月吉日建之 石碑碑文裏面 発 起 者 上道郡高島村農會長蒹村長 光石 彌吉 保証責任 高島村 信用購買販売利用 組合専務理事 水藤千代造 岡山縣農産物検査所西大寺支所長 池田三四郎 仝 農林技手 東山 蔵二 仝 西ア 佐市 石工 邑久郡今城村大富 中谷 秀吉 |
(中 島 貝原孝雄)
(住吉町 清水信之)