2006年(平成18年)8月28日
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XVI もの忘れを減らす

 記憶は、人生のなかで最も大切な財産です。その財産が年とともに減っていくとしたら・・。だれでも年をとると、もの忘れが気になってきます。
 身近な人の名前がでてこない、財布やカギを置いた場所がわからない、漢字を忘れた、一つの事に気をとられたら、他の事を忘れた、「アレアレ」「ソレソレ」などの言葉がふえた などの経験はないでしょうか?
 テレビの生放送などで、プロの歌手でも、歌詞を忘れてしまう場面をみることがあります。また、落語家の8代目桂文楽さんは、高座で人名を忘れてしまい、その場で日頃考えていた詫び口上を述べて、そのまま引退してしまいました。
 もの忘れは誰にでもあります。子供にだってあります。ただ、子供は気にしないだけなのです。
 年相応のもの忘れは、病気ではありません。気にしないのが一番です。もの忘れをなくすことはできませんが、少しでも減らすことはできます。
 今回は、もの忘れ対策につき考えてみました。

1) エビングハウスの忘却曲線


 1885年、ドイツの実験心理学者のエビングハウスは、有名な実験をおこないました。意味のない三桁のアルファベットをいくつも覚えてもらい、それがどのくらい長く覚えていられるかという実験です。
 その結果、20分後に残っていた記憶は、58%、1時間後は44%でした。その後の低下は緩やかで、1日後は34%、2日後は28%、6日後は25%、1ヵ月後は21%残っていました。
 記憶の大半は、最初に急速に消えてしまいますが、その後は、比較的長く保存されます。
2) 記憶の種類

 記憶には、短期記憶と長期記憶があります。この二つの記憶は、ハチ、ねずみ、鳥などすべての動物にもあるそうです。どちらの記憶も、生物の生存には不可欠なのです。
 短期記憶とは、数分ていど覚えている記憶です。ただし、日本人でも外国人でも、言語に関係なく、一度に覚えられるのは7ヶが限度です。
 長期記憶には、エピソード記憶、意味記憶、手続き記憶があります。エピソード記憶とは、個人の経験にもとづく記憶です。意味記憶とは、いわゆる一般的な知識です。また、手続き記憶とは、服の着方や自転車の運転のような身体で覚えた記憶です。
 このなかで、もっとも思い出しやすいのは、エピソード記憶です。単なる知識ではなく、それを個人の経験として覚えると、身につきやすくなります。
 意味記憶は、ど忘れしやすい記憶です。何かのきっかけがないと、思い出しにくい記憶です。
 手続き記憶は、ふつう長期に保たれます。

3) 海馬を活性化する

 2000年、イギリスの学者が、ロンドンのタクシー運転手の海馬が、経験年数に比例して、大きくなることを報告しました。これは、大変な発見でした。それまで、人間の脳細胞はふえないといわれていましたが、海馬の神経細胞は、最大で20%もふえていました。海馬は使えば使うほどふえることがわかったのです。
 海馬は、大脳側頭葉の内部にある小指大の部分で、記憶の中枢です。その断面像が“たつのおとしご”に似ていることから、海馬と名づけられました。
 各種の情報は、まず海馬へ送られます。海馬は、必要な情報と必要でない情報の振り分けをおこなっています。これらの情報は、海馬のなかに最大で1ヶ月ほど残っていますが、その後は、消えてしまうか、脳の他の部分へ転送され、長期保存されます。
 繰り返し入ってくるような情報は、海馬が必要なものと認識し、長期保存へまわします。繰り返し覚えることが必要なわけです。
 また、海馬は、初めてのもの(とくに空間情報)に対して、最もつよく反応します。初めての人にあったり、初めての所に行ったりすると、つよい刺激をうけます。買い物や食事も、なじみの店よりも初めての店の方が、刺激になります。また、知らない土地への旅行なども、海馬を刺激するいい方法です。

4) 扁桃体を刺激する

 海馬のすぐ傍に、扁桃体があります。扁桃体は、喜びや悲しみなどの情動をつかさどる中枢で、扁桃体の活動が活発になると、海馬の働きも活発になります。単なる知識の記憶よりも、感動した記憶のほうが、しっかりと残ります。
 好きなこと、おもしろいこと、楽しいことなどは、よく覚えられるわけです。
 中世ヨーロッパでは、大事なもの(例えば、土地の権利や一族の儀式など)を伝えるために、7歳くらいの子供を選んで、これらの事をしっかりと記憶させ、その後、川のなかへ放り込んだそうです。こうすれば、記憶がずっと子供の脳のなかに焼きつき、一生にわたって、子孫へ伝えることができました。これは、扁桃体の活動を最大限に利用したやり方ですが、かなり無茶です。
 最近の研究で、コルチゾールやアドレナリンなどのストレスホルモンが、扁桃体を刺激して、記憶力を高めることが、わかってきました。コルチゾールは小さなストレスでも分泌されています。アドレナリンは、大きなストレスの時に分泌されます。
 記憶のためには、普段は、小さいストレスがあった方がいいのです。ただし、ストレスは、記憶する時にはよくても、何かを思い出す時には、逆にストレスがあると思い出しにくくなります。
 年をとっても、子供のような新鮮な心で、好奇心をもち、物事に感動して暮らす。これができれば、記憶力を高める秘訣となります。

5) 脳は疲れない

 脳の栄養は、ブドウ糖だけです。ブドウ糖を摂ると、記憶力がよくなるという実験があります。脳に、十分なブドウ糖と酸素があれば、脳は疲れません。昼も夜も、寝ている間も、一日中働いています。
 人間の身体のなかで、使えば使うほど、働きがよくなるのは、脳と筋肉だけです。これは、高齢になっても、そうです。ただし、筋肉は使えば、疲労がたまりますので、時々休ませる必要があります。
 脳の神経細胞に障害をあたえるのは、循環障害低血糖および活性酸素です。とくに、脳細胞のなかで、海馬の細胞がもっとも脆弱です。
 高血圧、糖尿病、高脂血症の方は、動脈硬化が人よりも早く進んできます。血液の循環が悪くならないように、ちゃんと治療しておくことが大切です。また、糖尿病で薬をのんだり、インスリンを注射している方は、低血糖にならないよう注意が必要です。
 活性酸素対策は、食生活のポイント2(2005年7月28日版)を参照して下さい。

6) 手と舌を使う

 ホムンクルスの人形というのがあります。ホムンクルスとは、“小人”という意味です。  人間の脳のなかに“小人”が住んでいるという発想で名づけられました。大脳に分布する運動神経細胞の数にあわせて作られていますが、両手と舌が異様に大きくなっています。人間では、手と舌を使う神経細胞の数が最も多いということです。
 ですから、ものを覚える時には、単に目で覚えるよりも、書いたり、しゃべったりして覚えた方が、脳の神経細胞を多数使うことになり、より覚えやすくなります。
 また、家の中に閉じこもっている人よりも、外に出て、他の人と話したり、何かを作ったりする人の方が、明らかに記憶力が保たれています。舌と手をしっかり使っているからです。
 ピアニストなど手をよく使う人は、ぼけにくいといわれています。趣味として、楽器の演奏はおすすめです。
 もちろん、よく歩いたり、よく噛むのも、脳を刺激します。

7) DHAを摂る

 脳には、脂肪分が多く含まれています。昔、人食い人種が、人を食べる時には、脳から食べたそうです。脂肪分の多いものほど、おいしいのです。
 脳には、不飽和脂肪酸のDHAが身体のなかで最も多く含まれています。昔、日本人の子供が賢いのは、魚を多く食べるからだという報告がありました。実際、小笠原諸島の漁村の子のIQが高く、その村では、出荷した後に残った魚の頭をよく食べていました。
 DHAは、青身の魚に多く含まれていますが、とりわけ魚の眼の周りの脂肪に多く含まれています。DHAは、記憶力を改善し、また、老人性認知症にも効くというデータもでています。
 ただし、DHAは熱に弱く、酸化されやすいので、魚は刺身で食べるのが一番です。焼いたり、煮たりすると、DHAは変性します。
 107歳まで長生きした、きんさんは、毎日マグロの刺身を食べていました

8) 夢をみる

 睡眠には、レム睡眠とノンレム睡眠があり、レム睡眠の時に、夢をみています。この夢には、その日あった出来事が、断片的にでてくるといわれています。
 実は、夢をみている時に、海馬のなかで、記憶する情報と消してしまう情報の選別がおこなわれているのです。
 長期記憶のためには、十分なレム睡眠をとる必要があります。レム睡眠は、主に睡眠の後期に長くあらわれますので、7時間はゆっくりと睡眠をとって下さい。レム睡眠後に、記憶力が著しく向上するといわれています。6時間以下では、記憶力が低下するといわれています。
 また、寝る直前に覚えたものの方が、記憶は残りやすいことがわかっています。夜、勉強したあとは、テレビなど見ずに、すぐに寝て下さい。

9) 記憶術

 54歳で、円周率4万桁を暗唱して、ギネスブックにのった友寄英哲さんは、意味のない数字に、物語を当てはめて覚えたそうです。想像力の豊かな人で、現在74歳です。サラリーマンを退職した今も、一日何時間も記憶のトレーニングをしています。
 MRIで検査すると、友寄さんの海馬には、萎縮がみられないそうです。
 記憶術とは、覚えたいものを、何らかのイメージに置き換えて、覚える方法です。記憶の達人になると、文字の色、匂い、重さなども感じるといいます。信じられないような話です。
 大人は、いろいろな経験や知識が、子供より豊富です。子供のようにパッと覚えることはできませんが、大人では、過去の経験と結び付けて覚えると、より覚えやすくなります。

10) シュバイツアーの言葉

 体が健康で、記憶力が衰えたのが一番幸せである

 これは、シュバイツアーの少し皮肉な言葉です。その真意は、幸せになるためには、嫌な記憶は、早く忘れた方がいいと言っているのだと思います。忘れることも大切なのです。嫌なことばかり思い出すよりは、楽しいことだけを思い出す方が、人生は幸せにきまっています。
 作家の赤瀬川原平さんは、もの忘れがふえたことを、「老人力がついた」と表現しました。集中力がおちたのは、「分散力がついた」といいます。多少のもの忘れなら、明るく笑いとばした方が、精神的にも健全です。