沿革

みの(三野・御野)の由来
 
 「東備郡村志」に蓑山(みのやま)とは、素盞鳴尊(すさのうのみこと)當国簸(ひ)の川上にて、八跂の大蛇を斬り給い、又吉備の逆賊を征して、其功を終え、卑賤の姿して、敵を欺くの計略召し給ふ蓑笠を脱捨て、其の蓑を納め給ふ山と云えり。
 
 其の山は今御野郡、三野山これ也。
 故に其の「蓑」の訓をもって転じ、郡、村、の地名に作りしかば・・・ 「三野郡」は文武帝慶雲の頃より転じて「御野」に作れり。
 その簸(箕)(みの)山、簸(ひ)の川より寸簸(きび)の名前ができ、また寸簸(きび)國という名前ができ、その後に転じて吉備になってきたものという。
 吉備の國名が、このようにして、箕山からでてきて時代が変わるにつれて変化してきたという。
 とするならば、吉備路・國府・作山古墳等は後の世にできたもので、この簸の土地の方が先輩であり、基であるから、この御野の名を大いに誇りとし、後世、また他の人にも伝えたいと思う。

                    (御野今昔物語より)
 
 
三野臣(神宮寺古墳の主)
 
 日本書紀によると吉備津彦命の後裔であり
応神天皇の皇妃・兄媛(えひめ)の兄である御友別命(みともわけのみこと)の末子・弟彦が三野国を分与されて三野臣の祖となったとされる。

          三野臣は神宮寺古墳の主
 神宮寺古墳は平地に土盛りをして山を築造したものでは最大級で従事した人の数も期間も大したものである。
 こうした人手を使うことが出来るのは随分な権力者であって、かなり広範囲に渡って力を振るった貴人であると思われる。
 伝説によれば、崇神天皇の時、吉備津彦命が四道将軍として、山陽道に派遣され、その子孫は吉備医として繁栄し、川島/上道/三野など7つの県の県主を同族で占めていたと言われる。


 後の雄略天皇崩御の
479年、後継を巡る星川皇子の変によって吉備氏族に反乱が起こり、鎮圧後は吉備氏の権力は消滅したという。

 三野臣氏は備前一宮である吉備津神社を奉斎したことから後に社家・大森氏(後に大守氏に改姓)を輩出しているが、早くに武家に転じたとされる。
 系図によると三野臣の後裔とするもの、田使姓難波氏の一族、藤原支流、など諸説があるという。


 三野国造

 三野国造とは三野国(現・岡山県岡山市、加賀郡周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(15代)(270~310年)の時代に弟彦命(おとひこのみこと)を国造を定めたことに始まるとされる。


 国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう)は、古代日本における地方官である。
 軍事権、裁判権なども持ち、実質的にその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。 

 
三野評(マップ


 「評」は、国造のクニを分割・再編しながら、大化・白雉年間(645~654年頃)に全国的に実施されたと推測されている。

 それまで国造や県主だったり、部民や屯倉を管理していた地方豪族のうち、有力者が評家(こおりのみやけ)を建て、評の官人(評造・評督・助督)となった。

 藤原宮などの発掘によって大宝律令制定以前に書かれた木簡の表現は全て「評」と記されており、逆に「郡」表記のものが存在しないことが明らかとなった。
 このため、今日では大宝律令制定以前は「評」と表現される地方行政組織が存在したと考えられている。
 
 


 御野郡

 その後、大宝律令の制定によって「評」は「郡」に改められることになるが、単に名前が変わっただけではなく、その際に統合・分割などの再編成が行われていたとも考えられている。

 古代、旭川は、現在の岡山市北区玉柏・中区祇園付近で複数の河道に分岐していた。その分岐した複数の派川およびそれによって生まれた複数のデルタ地帯の西部一帯を郡域としていた。現在の岡山市中心市街地は御野郡にあたる。

 また、旭川本流は現在の流れも今より東寄りを蛇行しながら流れていた。
 しかし宇喜多秀家が岡山城を築城した際に流路を現在の位置に変更した。
 これにより旭川本流の西岸で御野郡であった現在の中区竹田・東川原・西河原などの村が東岸へと変わった。

 岡山藩が寛永年間に作成した『備前国九郡地図』では、東岸であっても御野郡として記載されているが、明治期までには上道郡へ移管されている。

 備前国の国府は時代によって変遷しているが、御野郡に所在していたこともあり、『和名抄』にはその旨が記載されている。
 場所は特定できていないが、御野郷・津島郷・伊福郷などの説がある。
また、郡衙も同様である。

 旭川の川の流れの変化や、干拓による海面の陸地化により、時代により郡域が激しく変化している。特に江戸時代に行われた吉備の穴海の大干拓事業により南部に広大な新田が開発され、郡域が大幅に広がった。

 延喜式神名帳には、8社(石門別神社・尾辻神社・天神社・伊勢神社・天計神社・国神社石門別神社・尾治針名真若比女神社)が記載されている。

 和名抄では以下の6郷が同郡に属している。 
牧石郷・廣西郷・出石郷・御野郷・伊福郷・津島郷

 1878年(明治11年)7月22日、郡区町村編制法により郡役所を巌井(石井)
村に置き、また岡山区が同郡より分立した。

 1889年(明治22年)6月1日、町村制施行により10村が置かれた。

  1900年(明治33年)4月1日、津高郡の一部と御野郡が合併して御津郡となった。


 御野郷 
 
 御野郡の範囲は現在の岡山市中心市街地に当たり、その中に牧石郷・廣西郷・出石郷・御野郷・伊福郷・津島郷の6つの郷があった。
「御野郷」が現在の御野学区に相当するが、現在の御野学区よりかなり広範囲である。


 御野郡御野村
 
 明治22年、市町村制施行により、御野郡の旧城下町は岡山市に編入牧石郷・御野郷・津島郷は廃し、牧石村・御野村・伊島村・石井村となる。
 
 
御津郡御野村 

 明治33年御野郡の一部と津高郡の一部とが合併して御津郡となる。
 

 岡山市 北方・三野・宿(マップ)

 
大正10年3月1日、御野村・伊島村・石井村・鹿田村は岡山市に編入 

 御野村の中に北方村・三野村・宿村の集落があり。
 
北方村
  枝村(中井・四日市

(北方14丁目・南方45丁目・中井町12丁目
・大和町1
2丁目・学南町13丁目・三野1丁目・
同3丁目 ・法界院・津島東12丁目・津島中2丁目
・いずみ町・絵図町・国体町・清心町)

  岡山城下町の北にある平地の村である。
東は旭川で限られ、対岸は中島村、南は南方村、西は津島村、北は半田山、三野村である。また南に枝村の中井、東の四日市がある。

 全間(萬)氏が永禄10年(1567年)の明禅寺合戦で滅亡するまで、ここに居をおいていたといわれるが(温故秘録)、詳細はわからない。

 城下町から北上する道は中井の上手をとおり、この村で津山往来と作州往来に分かれた。

 津山往来は中井のうちの車座茶店、八幡宮、北方村、えどう橋を経て、半田の大坂を越し、東原(半田山のすそ)横井上村に抜けるという道をたどった。

 一方作州往来は、北方村から枝村の四日市村を経て三野村にいたり、鑵子の釣を通って原村へ抜けた。(温故秘録)

 村高は貞享元年(1684年)の「萬引高差引帳」(池田家文庫)によると、朱印高1590石余、又高317石余、「萬荒引高」151石余という内訳で、差し引き実高1756石余、うち「萬荒引高」の内訳をみると、36石余の侍並びに御扶持人・足軽の屋敷高があったことがわかる。
  
 また「備陽記」には村高1590石2斗6升、本村は田畑54町7反7畝、家数98軒、人口516人、枝村中井は田畑30町9反、家数37軒、人口216人、同四日市は田畑11町8反5畝、家数25軒、人口146人とあり、更に文化年間(1804~18)の「岡山藩領手鑑」では本村の直高1491石余、家数128軒、人口528人、中井の直高782石余、家数52軒、人口240人、四日市の直高308石余、家数33軒、人口149人となっている。(平凡社・岡山県の地名)

 枝村の四日市では紙漉きが行われ、「四日市紙漉き」の名で呼ばれた職人の中には、藩が特に他領から呼び寄せた人たちもいた。

 また中井には今蔵屋源五郎の願いによって、享保5年(1720年)に水車場が設けられ、木綿実油・種子油・胡麻油を城下に供給しており(撮要録)、寛政3年(1791年)には中井の時之介が徳吉の宗左衛門とともに「御用絞世話焼き」になっている。(前掲書)

 氏神としては、本村は八幡宮(現、天計神社)、四日市・中井は四日市の御崎宮であった。

 御崎宮の勧請は寛延3年(1750年)という(神社明細帳)。

 寺は、寛文6年(1666年)に廃寺となる以前は、いずれも日蓮宗の湯島村の妙善寺末の神宮寺・今蔵坊・円住坊・法珠院などがあった。(撮要録)

 八幡宮は神宮寺跡に式内神を祭ったものではないかという説があるが(温故秘録)、はっきりしない。

 明治8年(1875年)中井・四日市とともに北方村となり、同22年に御野村を経て、大正10年(1921年)岡山市に編入された。

 昭和40年(1965年)と48年の住居表示事業で北方1~4丁目など多くの町に分かれた。

 現在、主に住宅地域である。

 国史跡神宮寺山古墳がある。全長150メートルの前方後円墳で4世紀末から5世紀初頭のものと推定されている。農具・工具・武具などの鉄製品が多数出土している。


 三野村 

現(北方2丁目・三野13丁目・三野本町・半田町・法界院・宿本町)
 岡山城下町の北に位置する村で、東は旭川で限られ、対岸に中島村がある。
  「みの」の地名については、素盞鳴尊(すさのうのみこと)が、雨のあがった当地で蓑笠を脱ぎ捨てたことに由来するという伝えがある。
   
 古代の御野郡御野郷の遺称地で「日本書紀」慶雲3年(706年)の条には「御野」とみえる。

 旭川に面して標高80メートルの妙見山(明見山)がある。

 中世山陽道は、対岸の今在家の堤防下から中間の川原を利用して妙見山のふもとに船渡しをしていたとみられている。

 地形がわん曲して、ちょうど鑵子(かんす)のつるのようになっていたことから「釣りの渡り」(温故秘録)、「鑵子の釣の渡」(和気絹)、「つるの渡り」(備前名所記)などといわれていた。


  渡し場に身投げ石(いわ)」と称される岩場があって、下は深い淵をなし、ここで身投げをするものが絶えなかったという。(温故秘録)

 旭川沿いの土手は周匝(すさい)往来が通り、土手上には池田光政が納涼のため「三野の御涼所」をつくったこともあった。(前掲書)

 妙見山には明見山城、あるいは「鑵子釣城」という城跡があり、永禄
(1558~70)のころ、須々木四郎兵衛の居城であったが、明禅寺合戦ののち宇喜多氏によって召し上げられたという。

 のちに山頂に「明見宮」が祭られた。明治2年
(1869年)天津神社への改号を経て、天神社となった。(「神社明細帳」ほか)

 
貞享元年(1684年)の「萬引高差引帳」(池田家文庫)によれば、村高は朱印高252石余、又高110石余、「萬荒引高」23石余という内訳で、差し引き実高339石余、枝村法界寺とある。

 のちの「備陽記」などでは、高252石5斗6升、田畑16町9反8畝、家数53軒、人口309人とされ、更に文化年間(1804~18)の「岡山藩領手付鑑」では直高384石余、家数50軒、人口226人となっている。

 正保3年(1646年)「備全国九郡の帳」(池田家文庫)に「草山小」とあるように、草刈場にはあまり恵まれない村であったが、灌漑用水は御野郡の北から西の笹が瀬川の注ぐ座主川の取水口清水堰(六挺樋)が整えられて豊かであった。

 なお座主川用水は古代条里の地割に沿っていることから、その成立は古いとみられている。

 枝村は法界寺には真言宗御宝派の遍照寺法界院がある。天平勝宝年間(749~57)に報恩大師によって創建されたと伝えられ、本尊聖観音立像は国重文である。

 明治22年(1889年)宿・北方・南方・広瀬町・八番町・万町の一部と合併して御野郡(明治33年から御津郡)御野村となり、大正10年(1921年)岡山市に編入、合併された。

 
その後昭和48年(1973年)の住居表示事業で、一部が北方2丁目など多くの町に分かれるにいたった。

 岡山大学・岡山理科大学に近く文教地区であり、現在、市水道局三野浄水場、半田山、植物園、三野公園などがある。
 宿村  枝村(三軒屋・小室・半田

現(宿本町・三野本町・半田町・法界院・理大町・宿)
   
 岡山城下町の北西、半田山ふもとにあり、東は旭川を隔てて中島村・南は三野村、北は原村と接していた。川土手を周匝(すさい)往来が通っていた。 

  
地名は、中世山陽道が旭川を渡る三野の渡しで結ばれていたことにより、なんらかの旅宿の機能を持つ集落があったことに由来すると考えられる。

 貞享元年(1684年)の「
高差引帳(よろずたかさしひきちょう)」(池田家文庫)によると村高の内訳は朱印高451石余、又高(まただか)124石余、「萬荒引高((よろずあらひきだか)」95石余、天和3年(1683年)の改め出し高12石余、侍手作高などとなっていて、実高は差し引き合計496石である。
 
  枝
(えだ)
村に三軒屋(さんげんや)・小室(こむろ)があった。

 
 「備陽記」などには村高451石2斗、田畑26町5反4畝、家数67軒、人口448人、渡し船一隻、池6カ所と記され、さらに文化年間(1804~18)の「岡山藩領鑑((てかがみ)」では直高((なおしだか)658石余、家数76軒、三軒屋17軒、小室7軒、半田6軒、人口532人となっている。(平凡社「岡山県の地名」)
 
  
とくに文文化年間の直高に家老池田和泉ほか6人の給地が含まれていることからすると、貞享以後宿村及び枝村に新たな給地割りが行われたようである。

 また半田村が枝村として成立するのも、それ以後のある時期のことと思われるが、詳細は明らかでない。

 「備前九郡之帳」(池田家文庫)には「柴山小」「草山小」とみえ、採草地の恵まれなかったようである。

 そのためだろうか、宝暦9年(1759年)には隣村の畑村・原村両村との間に草刈場をめぐる入会相論が起きている。

 発端は宿村の者が畑村・原村の草刈場に入ろうとしたところ、大勢の畑村百姓が山留めを強行したことにあったが、翌年の藩の吟味に対して、宿村は先年半田山が藩のお林になって以来、草刈場にこと欠き、畑村・原村の山内で刈って来た旨を主張している。
 いっぽうこれに対し畑村・原村は、宿村の入会場への入り込みは、宝暦9年(1759年)に新たに始まったもので、前々から2、3人ずつ盗み刈りに入ったのを追い散らした事実があることを述べ、反論している。

 藩はこれら3村の言い分を吟味した結果、宿村に入会の権利がないことを認めつつも、宿村に草刈場のないことを理由に、新ためて船山谷・磯尾谷を3カ村の入会場とする裁定を下している。

 明治22年(1889年)三野村・北方村などと合併して御野村となり、大正10年(1921年)には分離して牧石村に牧石村に編入された。牧石村は昭和27年(1952年)岡山市に編入合併された。

 同48年の住居表示事業で、一部が宿本町・半田町・法界院・三野本町・ 理大町となった。

 新町名の半田町は枝村や山の名からとり、理大町は岡山理科大学にちなんだ。
 現在、同大学や陸上自衛隊三軒屋駐屯地などがある。
 
 町内会・連合町内会の系譜
(学南町一丁目安増壮一氏 記述)
 
・町内会・連合町内会の系譜を、主として「広辞苑、新村出、1995年岩波書店」
 辞書の記述により遡る。

・古代国家の大化の改新で、国―郡―里の地方制度が定められ、里の末端 に五保
 が置かれたが、この五保が今日の町内会と言われている。


・五保は唐の制度に習い律令制で定めた隣保組織で、隣接する5戸で構成し、納税、
 防犯などの連帯責 任を負わされた。


・天下を統一した豊臣秀吉は治安維持に、五保に習い、五人組の掟を定めたが、こ
 の五人組が町内会とも言われている。


・徳川幕府に引き継がれ、近隣の5戸を一組とし、火災・盗賊・浮浪人・キリスタン
 宗徒の取締り、また婚姻・相続・出願・貸借等の立会いと連印の義務、納税・犯罪
 の連帯責任を負わされた。


・町内会・連合町内会を公的制度とする国家的整備は、昭和15年9月11日内務大
 臣訓令第17号で「部落町内会等」整備がおこなわれたが、市街地の町内に組織
 する自治組織で、日中戦争下、地域行政の末端機構 として漸次組織化され、大
 政翼賛会の下部組織となり、内部に隣組を編成し、この時代に連合町内会を結成
 されている。


・町内会は例えば配給制度も担当し、昭和15年から各戸では町内会を通じ交付され
 る切符によらなけれ ば砂糖・マッチは入手できなくなった。
・配給対象物資は増加し、同17年度では米穀・味噌・醤油・塩・砂糖 ・食用油・酒・
 削節・海苔・ 小麦粉・うどん玉・菓子・牛肉・牛乳・乳 製品鶏卵・野菜・衣料品・
 脱脂綿に拡がっていた。


・昭和22(1947)年5月3日に、ポツダム政令第15号で法制上は廃止された。

・昭和27年サンフランシスコ講和条約締結に伴い、町内会・連合町内会が復活し、
 地方自治を背負うという言い方で今日に至っている



 町内会の設立と御野学区連合町内会結成経緯
 
・昭和265月に津島みどり町町内会結成し、片山貞一氏が町内会長に就任、同年
 同月片山氏 は御野 学区連合町内会規約を作成した。

・昭和
269月にサンフランシスコ講和条約が締結されたが、町内会結成禁止が解
 かれたのは 昭和
27 年10月からで、御野学区の多くの町内会はまだ古い体質の
 町内会のままであり時期早々であった。

・片山氏は新しく町内会が結成される度に、順次、御野学区連合町内会加入を呼び
 かけた。

・昭和274月 宿町内会、
・昭和
28 9月 北方中井町町内会、
・昭和29 2月 北方東本町町内会、
・昭和3110月 津島土生町内会、
・昭和
3111月 北富町内会、
・昭和
32 8月 青葉町町内会、
・昭和3210月 江道町内会、
・昭和
3211月 北方大和町町内会と北方四軒町町内会、
・昭和
33 1月 三野町内会と北方四日市町内会、
・昭和
33 6月 宿親和会町内会、
・昭和342月 北方西本町町内会 各結成

・昭和349、14町内会により御野学区連合町内会を結成、 
 初代会長に片山貞一氏 が就任し、岡山市に登録

 
 
町内会のその後の変遷 

 ・昭和37年、三軒屋町内会結成

昭和40年、県営グランドから県道吉井線までの旧北方の一部と中井町の
 住居表示が変わり、学南町1・2・3丁目、大和町1・2丁目、中井町
 1・2丁目となり町内会の枠組みや名称も変わる。


・昭和41年、北方四軒町町内会・北方大和町町内会・北方中井町町内会解散
・学南町南町内会
・学南町
3丁目町内会
・大和町1丁目町内会
・大和町
2丁目町内会
・中井町1丁目町内会
・中井町2丁目町内会
・宿三軒屋税務署親和会町内会
・宿校友会町内会
・宿新町町内会、 各結成


昭和45年、根石昌平氏、第2代目連合町内会長に就任

昭和48年、県道吉井線より東と北部の旧北方・津島・三野・宿の住居表示が
 変わり、北方1・2・3・4丁目、津島東1・2・3・4丁目、宿本町、半田町
 1・2・3丁目、法界院、三野1・2丁目、三野本 町、理大町となり、町内会の
 枠組みや名称も変わる。

・宿南町町内会
・三野公園団地町内会 各結成

・昭和49年、半田町元町町内会結成

・昭和52年、江道町内会が分離
・東江道町内会
・西江道町内会 各結成


・昭和55年、学南町南町内会が分離
・学南町
1丁目町内会
・学南町中央町内会 各結成


・昭和59年、御野学区連合町内会創立25周年記念式典(御野小学校にて)
 参加は
26町内会

・昭和62年、北方マンション町内会結成

・平成01年、大倉敏夫氏第3代目御野学区連合町内会長に就任

・平成04年、宿三軒屋税務署親和会町内会解散

・平成08年、服部勇氏第4代目御野学区連合町内会長に就任

・平成11年、山平勝也氏第5代目御野学区連合町内会長就任

・平成12年、2000年みの夏まつり、岡北中学校で開始

・平成15年、御野連合電子町内会開設

・平成16年、宿新町町内会解散。

・平成17年、大和田黎子氏第6代目御野学区連合町内会長就任

・平成18年、御野学区安全・安心ネットワーク設立

・平成19年、北方ウィン町内会結成

・平成21年、御野学区連合町内会創立50周年記念式典(北公民館にて)参加
 は
23町内会