◆神宮寺山古墳(4世紀後半)
・この古墳は吉備の巨大古墳の第5番目に大きく、4世紀後半(約1600年前)の築造と推定されている。 全長約150m、後円部約70m、墳高約13mの竪穴式前方後円墳。(前方部は一部欠損)1961年、竪穴式石室に接続する小石室が盗掘され、多くの副葬品を失った。 |
御野小学校北側に隣接の 神宮寺山古墳 |
◆古墳の主(吉備津彦命の子孫ー三野臣) 神宮寺古墳は平地に土盛りをして山を築造したものでは最大級で従事した人の数も期間も大したものです。 こうした人手を使うことが出来るのは随分な権力者であって、かなり広範囲に渡って力を振るった貴人であると思われる。 伝説によれば、崇神天皇の時、吉備津彦命が四道将軍として、山陽道に派遣され、その子孫は吉備医として繁栄し、川島/上道/三野など7つの県の県主を同族で占めていたと言われます。 日本書紀には応神天皇の条に「三野県を以って御友別の子弟彦に封ず。 これ三野臣の始祖也」とある。 |
半田山植物園(半田山貯水池)の頂上付近には、いくつかの古墳が並んでいる。 頂上にある前方後円墳は、第2次大戦末期に高射砲弾地となって、後円部の石の部屋の所が掘られて大きな穴があいていた。 最近は埋まって、そのままになっている。 ところで、明治の末頃、半田山配水地を造る時も、尾根上にあったいくつかの古墳が壊されている。 |
半田山植物園頂上付近の 一本松古墳 |
その時出土した遺物が東京国立博物館の所蔵記録に載っている。 御津郡御野村北方、一本松出土、兜破片・鎧破片・鉄槌・鋏。鋏とは「やっとこ」のことで熱した鉄などをはさむのに使うものである。鉄槌や鋏などは鉄製品をつくる鍛造具である。 大体5世紀の中頃の古墳から出土するものである。 |
出土した鉄槌とやっとこ |