牧山地区の概要と歴史
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1.岡山市中牧(郷・中牧) |
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御津町中牧(湯須・十谷) 岡山城下町の北部にあり、津高郡に属していた。東は旭川を隔てて鍋谷村と向い、南は下牧村、西は野々口村、北は大鹿村に接していた。現岡山市域の旭川沿いの北端である。耕地は旭川右岸地域から山の谷間に階段状に分布している。村名の由来は、近世、近くに岡山藩の狩場があったために、牧山の名がつき、その中央にあったところから中牧村となった。 |
| 2.岡山市下牧(大戸・下谷・中谷・上谷) |
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御津町下牧(堀越) 岡山城下町の北部にあり、津高郡に属していた。東は旭川を隔てて牟佐村、南は河本村、西は金山寺村、北は中牧村に接していた。金山の旭川沿いにかけての山村である。村名の由来は、赤坂郡高倉山(下牧村の旭川を隔てた対岸)などが、近世、岡山藩の狩場であったところから、牧山の地名がつき、牧山地区の最も下流にあったため下牧村となった。 |
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3.岡山市高野尻 |
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岡山城下町の北部にあり、津高郡に属していた。東は畑村、南は栢谷村、西は中野村、北は大坪村・中山村に接していた。金山の南側の山腹、標高300メイトールのところにある山村である。村名の由来は、昔、弘法大師(空海)がこの地に来たからという説と、高野聖がこの地にいてなまって高野尻になっとという両説がある。「寛永備前国絵図」には小屋尻村とあり、「備陽記」も「古くは小屋尻村ト書」と記している。「正保郷帳」に高野尻村、村高78石6斗9升とあり、高野尻村となったのは、寛永15年(1638)以降正保2,3年(1645/1646)のあいだである。「備陽記」によると村高は「正保郷帳」と同じで、田畑9町1反2畝、家数10軒、人口83人、池2ヵ所。岡山上出石町口まで道程2里4町とある。「温故秘録」には産物とし「とううす」(籾すり臼)をあけている。
明治9年(1876)同じ山上にある中野村と合併して高野村となり、同22年に中牧村など4ヵ村と合併して牧山村となった。昭和28年(1953)分村して岡山市と御津郡(旧津高郡)御津町に編入合併され、高野尻地区は岡山市に入った。現在、金山の南面にある10数戸の集落がそれで、交通は、辛香からの金山登山道を高野(旧中野)で分かれ、高野尻に至る車道がある。 高野(旧中野)は、野谷村へ編入の後、津高町を経由して、現在岡山市高野となっている。 |