< 第 41 回 >  岡山市 中原地区の風土記(3)     平成20年6月1日
 文責  :  池田 順行


写真をクリックすると、拡大表示します。もとに戻る時は、ブラウザの「戻る」をクリックして下さい。

 1. 御 納 涼 所 (お涼み所)

風土記(1)に 掲載した 中原のお涼み所は、岡山藩主 池田光政(みつまさ)公の遺徳を偲ぶ史跡ですが もう少し詳しくお伝えします。

当時 中原のお涼所は、旭川の中洲に集落があり、その集落の中で 一番高い丘で 風通しがよく 見晴らしのよい場所でした。其処からは、操山・金山・龍ノ口の山々に囲まれた備前平野が 一望できる場所でした。


光政公は この地を好み 岡山城での政務の疲れを癒すため 度々足を運ばれましたが、貴重な農地を潰してはならないとして施設を造ることはありませんでした。
また野外で、領内の人たちと 直に会話もして、時を過ごした所でした。



 2.甘 棠 碑かんとうひ)

宝暦7年(1757年) 祖父 光政公の仁政を尊敬していた継政(つぐまさ)公は、この地を尋ね その遺徳に感動され この地に碑を建て保全顕彰を計られたのです。

[碑文]

  (市原清七郎の詩)

   一遊一豫民父母 勿翦勿敗餘甘棠 

  (継政公自詠の和歌)

   拂ふなよ 木の下陰の塵までも
   君がむかしの あとをのこして


詩・和歌とも、この地をこのまま後世に伝えなさいと書き記しているのです。

宝暦7年3月25日と 建設年月日が刻まれています。














甘 棠 碑(かんとうひ)

甘 棠 碑 (かんとうひ)


 3.野菜の直接上納 と 梅の木「花香実(はなかみ)」

梅の木「花香実」の移植

現在植えられている「花香実」


西の丸へ 野菜などの直接上納

隠居し 岡山城西の丸に居住している継政公は、宝暦9年(1759年)中原の名主 権四郎に お涼所の保全が行き届いていることを褒めました。
そして、中原で獲れる鮎や野菜などを、西の丸へ直接持参することを許すと、西の丸奉行を通じて伝えました。



■梅の木「花香実」の移植

安永4年(1775年) 継政公は、光政公が 西の丸に植えていた梅の木「花香実」の樹勢が弱くなったので、接木してお涼所に分植しました。



 4.遺 愛 梅 碑 の 建 立


文化14年(1817年)池田治政公(はるまさ : 隠居して西の丸に在住)が、光政公の遺徳を偲び 継政公の遺風を受け継ぎ、梅の木「花香実」分植の由来を 国学講官 万波俊成に碑文を書かせ、その石碑を建てさせたのです。





 5.お涼所保全料支給

文久3年(1863年)岡山藩 池田茂政(もちまさ)公は、お涼所の掃除が行き届いているとして、名主 権四郎に 毎年玄米5俵を与えると仰せつけられました。








遺愛梅碑

遺 愛 梅 碑


 6.お涼所の改築

改築伺いに添えた絵図

改築伺いに添えた絵図






明治17年(1884年) 中原村では 上ノ原・中ノ原・下ノ原の各地域の代表5名が発起人となり、木製の囲いなどが朽ちてきたので 池田家に改築伺いを絵図を添えて提出、許しを得て
「納涼所保存の趣意書」をつくりました。
岡山市内全域に発起人をお願いし、義損金を 3百余名から募り99円50銭が集まり、石柱囲いのお涼所の遺跡が出来上がり、末永く保存できるものとなりました。

(参考 : 当時 米1キロが4銭くらいでした)



昭和25年(1950年)お涼所は、
池田家からその管理を岡山県に譲渡
して 県財産に組入れられました。




 7.お涼所の現況

中原地域の安定した農業収入として、ネギの共同生産が 昭和58年(1983年)に計画されました。
昭和62年(1987年)には、岡山市農業協同組合が お涼所の土地を借り受け、共同集荷場を設けました。
その他にも、消防機庫・集会所なども設置されて、明治21年改築の遺跡が 壊されました。

今では、甘棠碑・遺愛梅碑・梅ノ木「花香実」が、光政公の遺徳を偲ぶ史跡として ひっそりと残されています。











今に残る石柱の一部

今に残る石柱の一部

  (参考文献)
     穝 要 録
     岡山大学附属図書館所蔵中原御涼所に関する書類




<<<学区の皆様の 投稿をお待ちしています>>>カウンター

前の風土記へ 最初の風土記へ 次の風土記へ