平成22年度 加茂健康づくりウォーク記  by 三垣 
『会員増を期待していたが、今のところ新規会員4名増(加茂学区から遠いい方の加入希望もあったが事情を話して断った方もあり)    4月の時点

35日 加茂コース

9時高松公民館集合。31日「二月堂の修二会」が始まってから寒さが盛り返していたのが、今朝は和らいで快晴のウオーク日和になる。駐車場の日差しの当たる一角に集まってラジオ体操。コース確認の後、新調のネーム入りジャケットを5名のものが着けて出発。→地元のコースのためか自然と歩調が緩い。「加茂用水」沿いに南下して三本木の(榊原)津寺地行所−通称「代官邸」跡の見える所に着く。遺構は判然とはしないが、同町内居住のK氏は田圃の一角を指してその場所を教えてくれる。→南下して高速道のガードを潜って南の側道に出る。東進して薬師堂を経て加茂神社に着く。祭神は(かも)別命(わけのみこと)(吉備(おみ)の祖)。加茂長寿会の奉仕活動で境内は清掃が行き届いている。→さらに南下して三年前建立された不受布施派の顕彰墓碑の前に立つ。板碑の説明文などを読んで同派の認識を深める。厳しい弾圧をかいくぐって来た同派のような過去にたいしは、正しい歴史認識をもたなければならないのをあらためて痛感する。遺構の残っている火葬場の横を通って加茂団地を抜け加茂城址の見える場所に出る。少々気は引けたが田圃のあぜ道を踏んで加茂城東の丸に着く。市文化財指定地である。掲示の説明板を読みながら戦国時代の加茂の合戦に思いを馳せる近くの田圃の中に「甲の丸」の中心地あたり伝承れている高まりが見える。→ウオーク出発前に確認してきた「東の丸」・甲の丸・「西の丸」とまるで芋虫のように伸びている連郭式の城址の範囲を確かめながら、道筋を辿ることにする。城外の「大沼」は沼地埋め立てて田圃として利用されてきた農耕には適しがたく現在は「中須賀団地」として造成されている「西の丸」の辺りには高松町時代に、町指定文化財地の標識が出ていたことも話題になる→城址を抜けて一軒家町内に入って宗蓮寺の前に出る。境内にらず、門前に建つ「木造毘沙門天像」の説明板を読む。由来を読んで感ずることはこの像がいつまでもこの寺を安住の地にして祀られたい箕島金川線道に向けて立つ寺の掲示板の垣本上人の「訓戒の詞」に、いつもながら頭がさがる。説教銘すべし。→高速道ジャンクション下の隧道を潜って側道に出る。すぐ沿道に「避病舎」の地がある。普段は何気なく通過している所だが、話題に出ると子供の頃の故郷の夏の風景が思い起こされる。→そこから100mも北上すると当時紙上を賑わした「杭列遺構」の発掘地がある。地中に埋め戻され誌上保存とされているが、所轄へ「標識板設置」を要望してきた自分としては、今からでも何とかならないのかと切望せざるをえない。  →太陽が中天に来ると早春のやわらかい日差しが野辺に広がる。のんびりウオークが続いたが、この地域がいわゆる「まほろば」と自負できる土地でありたい願望を抱きながら、丁度11時前、公民館に帰着。 「万歩計は8,000歩になっとるが、、、。」という誰かの声が聞こえる。

 今年度最後のウオークの日の今日は、来年度に向けての総会の日。 公民館の一室を借りて協議会を開く。  新調ジャケット・会計の概要・メダルの贈呈者・新年度の計画案・役割分担・広報活動等々を協議題にして、12時半、会を閉じる。

 メダル贈呈者9名。 会員増は期待通りにはならなかったが、来年を期して頑張らなければならないなと思う。 健康・親睦・郷土愛を望む心ある地域の方々の参加を期したい。

―――「健康は足から、良識は見聞から」をモットーに!―――




2
5日 稲荷奥の院・龍泉寺コース

 9時高松城址公園駐車場集合。暦どおりに寒気が一変して、立春の翌日の今日は気温11℃。 2月のウオークとしては最高の日和。4名の新参加者を入れて総勢22名。準備体操の後、コース・安全の確認をして、915分過ぎ出発。城址本丸を横切って福成寺跡を横目に天井川沿い北上し、旧稲荷西参道慕タワを経て「お稲荷さん」の境内に入る。一昨日催された恒例の「豆まき式」の賑わいはうそのよう。桟敷の屋台が名残をとどめている。それでも広い境内には多くの参拝客が祈願に集っている。我々は先を急ぐため、霊光殿境内広場を横切り、鐘楼の横を登って上段の旧本殿霊応殿前の広場へ向う。ベンチを借りて小休止。15分ほどの休憩の後、ウオークの安全を祈願して奥の院参道に入る。手摺に手をかけながら急勾配の石段をケーブル遺構沿いにゆっくりと登る。霊場の急坂は身の引き締まるものを感じさせる。最高齢のNさんは、経験豊かにペースを保ちながらしっかりとした足取りで最後尾について登る。→題目岩を過ぎ左手に道を変え八畳岩に出る。今回のウオークの目的の一つには、この八畳岩の岩窟を訪ね、およそ千三百年前孝謙・桓武二帝の病気平癒に功績のあった「お稲荷さん」開基報恩大師を偲ぶことにある。十数段の石段を降りると岩窟が拝まれ見学しやすいように小広場が整備されていた。祈願所の岩窟の屋根に当たる八畳岩からは、高松城方面の眺望は春霞に煙ってやや残念。→来た道を引き返して再び奥の院登山道に出る。暫らく行くとケーブルの終点地に立つコンクリートの遺構ラジオ塔が見えてくる。かつっての駅広場から参道はなだらかな上り道となる。二つの鳥居をくぐり両側に石塔・題目石の並列する参道を登りきると奥の院の本殿が見えてくる。参拝の後、記念撮影をして小休止をとる。稲荷竜王山山頂は古来信仰の地、イワクラと宝塔が立錐の余地なく散在する。→11時を期して龍泉寺を目指して出発。奥の院登山車道を降っていくコースをとる。アスファルトの下り道は軽快に足が運び、会話もはずむ。→市道長野線に出て南下し鉄柵をまたいで龍王池湖畔の道に入る。道からは木立に遮られて眺望がきかない。赤土の山路の感触は心地よい。やがて杉木立の向こうに龍泉寺の本殿が見えてくる。参拝の後、拝殿前で二回目の記念写真を撮る。→石段を降って寺務所のある境内に出、来訪の挨拶をする。大奥さんの丁寧な応接にあずかり、休憩所に案内される。12時前、頃はよし、休憩所のテーブルについて過分の接待を受けながら持参の弁当を拡げて昼食をとる。3時間弱の山路のウオーキング後の食事は冥加に尽きる。足の疲れも忘れ心豊かにウオークの醍醐味に浸る談笑の声がはずむ。→1220分、境内の散策に移る。まず龍泉寺のシンボル龍王の滝に向う。龍口から水が流れ落ちて業場の岩盤に跳ね返っているが、周りの岩肌には先日降った雪が点々と薄綿のように残っている。その雰囲気から霊験さがいっそう迫ってくる。石段を引き返してユルギ岩の前に出る。「三千貫の岩は指一本で動く」とゆう。「そんなことが?」と言っている内に、手に触れると僅かながら揺れるのに一同驚く。続いて太閤腰掛岩。毛利軍との交戦で一帯の山野を行軍して指揮に当たっていた羽柴秀吉はこの岩で休息したかもしれない。歴史のロマンも好しと納得。→寺の境内を出て竜王池の南土手沿いの道を行く。赤鳥居をくぐると八大竜王大宝塔が目に付く。この竜王池には樂々森彦命(ささもりひこのみこと)が山頂の岩を穿って作ったという伝説があるという。湖畔に突き出た岩上には身代り地蔵尊が祀られている。近くに「鯉岩」の標識を見つけて覗いて見と、成る程地藏尊の祀られている下の巨岩のかたちが鯉の顔形を連想さす。岩屋にも似た話があったのを思い出す。その先の山側には寄進の石造小地蔵尊が数百体(?)も祀られている。池の上手の湿地は県立自然公園の標識が掲げられ、湿地の山野草が保護されている。春立つ今は可憐な姿はまだ見られない。→吉備自然道を辿って、なだらかな山道を下る。思わず歌が出るような快適な山路はあっという間に往路の奥の院登山道に合流する。→勾配のきつい登山道を手摺に縋りながら暫らく降って、途中の分かれ道を東進して稲荷荒行堂の境内に入る。→妙見堂に廻る予定を変更して妙教寺に向う。山門を潜って境内に出る。小休止を兼ね境内から諸殿を拝み、案内板を読む。移築前見学したことのある池泉回遊式の庭園は、今は有料になっている。時代の流れにやや侘しさを感じる。→健康づくりのウオークながら、「お稲荷さん」に来たら正面参道の仲見世筋を通らない訳には行かないと、かっての賑わいを偲びながら文化遺産の店並み筋を下る。名物柚子せんべい・ご縁まんじゅうを手にしてにこやかな顔で三々五々になって進む。参道入口に集結して帰路に就く。西大池沿いの旧参道を経て自転車道に入る所では、屋台の八百屋店に足を止め、買い物をする。気心の知れた仲間同士、買うのを待って帰路に向う。→自転車道を通る正月の雑踏も今日はうそのようにほとんどない。3時前高松城址に無事帰着。
 全行程10キロ。歩数2万歩。最高齢87歳。高松地区の最高峯とも言える龍王山経由のウオークは、我々に新しい発見と自信や満足を恵んでくれたように思う。城址のベンチに腰を下ろして新しいユニホームの相談と次回の確認をして解散。





1
3日 吉備津神社コース

 9時小学校集合。31日から1日にかけての山陰地方の記録的な大雪による被害が報道される中、天候もいささか心配ではあったものの山陽側の当地方は平穏なウォーク日和になった。参加者は偶然にも昨年と同数の17名。新年を迎えた皆の顔はどことなく晴れ晴れとしている。体操の後コース確認をして出発。まず学校から180号線に向うが、正月の朝の町道は静かだ。→相賀邸跡から国道を渡って吉備津地区に入る。地蔵堂を南下して旧山陽道に出る。街道を東進して吉備津参道を目指す。吉備津駅前に来ると、丁度下りの電車が着いて初詣客が構内から出てくるのに会うが意外と少ない。参道を進んで180号との交差点に立つと流石はと思われるほど東西にびっしり車が連なっている。→参道の側道部を進むと数名のものが田圃の中に散在して立っているのが目に付く。時刻的に言って矢立の神事で飛んでくる矢を待っているのだろうと想像できる。駐車場前で参詣順路と集合時刻を確認して、昨年同様に境内は自由行動とする。→手洗舎の前には三条ほどの行列ができている。矢置き岩には神事のあった様子は既になかった。掃き清められた石段を登って北随身門を潜り本殿へと急勾配の石段を上る。参拝客で賑わう拝殿前に立ち、本年の多幸を祈願する。例年元旦に初詣をしたときに求めていた破魔矢を今年はここで買い受ける。本殿横の広場は恒例の三味線餅つきがたけなわ。大勢の参拝客が長い列を成して出来上がる餅を受け取っている。伝統ある吉備津神社の正月風景で幸せを感じる。氏子総代のN氏に新年の挨拶をして搗き立ての紅白のお餅を頂く。お役の人と正月の挨拶を交わす。→和やかな神事の行われる境内をあとに一童社宮に上がる。振り返ると比翼入母屋造りの屋根が輝いている。さっそく同道のメンバーを誘ってシャターをきる。昨年保存修理が完成された屋根の朱色がひときわ目を引く。ふと横を通る紳士に気がつくと、かっての上司のA先生。孫の大学入試の合格祈願でご夫婦での参拝と聞く。続々と続く参拝客の流れにのって、こちらも拝殿に立ち高校入試の孫の合格を祈願する。→石段を下って恵比寿宮にでる。やがて迎える八日恵比寿祭を待っているようにひっそりと祀れている。→春を待つアジサイの小道を通って岩山宮・祖霊社へ。拝礼の後梅林を横切って西向きに祀られている三社宮=春日宮・大神宮・八幡宮へ出る。そこから一旦回廊に出て下手にある七十五膳据の神事の厨房に回るが、今日は弓道初稽古の控え室に使われていた。→回廊を引き返し、渡り廊下を下って鳴釜神事で有名なお釜殿に向う。丁度神事が執り行われている最中、入口から拝見させてもらう。殿内には三十名ばかりの善男善女がご祈祷を請けていた。室町時代から続くこの神事には不思議な霊力があるのだろう。→神事が終わったところで、約束の駐車場に出て全員の集合を待つ。1045分全員が集合したところで、木立の中に聳える本殿をバックに記念写真を撮る。→西の出口を通って、大駐車場の犬養木堂の銅像前に着く。頂戴した紅白の御餅をお年玉として渡す。→帰路に就く。駐車場横の畦道から宮内の往来に向うところ、振り返ると社殿が吉備の中山に映えて美しいのに気づき、もう一度記念写真を撮る。→往来には人通りが意外とすくない。瀬尾太郎兼康碑・鯉山小・伝栄西禅師ゆかりの地跡・北消防署吉備津出張所などを経て180号線を渡り板倉川沿いに進み、板倉大橋のとこから旧山陽道に出る。往路のときより通行する人・車が多い。→西町ちびっ子広場の横を通って西進し、180号線に出て、東加茂の交差点から小学校に向う。気づくと向こうの県道清音真金線には数珠繋ぎの車の列が見えた。恒例の正月の風景を横目にしながら、足取り軽く小学校に1120分帰着。次回のことを確認して解散。何となく幸せを懐にしたようなウオークであった。





12
4日。日差山毘沙門様・鷹ノ巣城址コース。

 9時加茂小集合。会員17名と幼稚園児・小学生4名の総勢22名。坂道が長いので高齢の会員が不参加。前日の大風も治まり、温暖の好天気。天気予報では黄砂の飛来も告げられていたのでやや気になっていたが、殆んどその気配すら感じられない快晴。体操の後、ウオークポイントの説明。報恩大師や高松城水攻め期の毛利勢の陣城。→校庭から足守川土手を南下。いつもながら朝の空気は美味しい。温暖で、師走の感がない。新黒住橋の手前を右折して矢部の宝泉寺に向う。ここは戦国時代は陣城として使われていた河屋城の跡であるが、後世に日差山から移った宝泉寺の寺域である。→旧山陽道を横断して矢部町内を通って日差山山麓に向う。矢部廃寺の話が出る。→新しく利用されている車道は少し遠廻りになるので、近道を辿ろうとしたのが失敗で、高速道の陸橋を一つ手前で渡ることになってしまう。最近通る人も少ない此の処の道は、草を分けながら進むことになり、「引っ付き(もち)」の洗礼を受ける。ズボンから上着にまでくっ付いた草の実は剥ぎ取るのが大変。→やっと車道に出る。狭い山道を分けてきただけに広い車道はほっとする。日差寺を目指す足取りは軽くなる。視野も広がり遠く児島の山並みも見えてくる。道沿いの畑の大根や白菜の緑が美しい。名前の分からない真っ赤な果実は手折りたくなる。左右に緩くカーブする登山道は意外に長く感じられる。暫らくすると、ここまで自動車で来れるのかと駐車場に気づく声。参道は石段に変わり、巨岩の脇をると巖上に備前焼の狐と思しき獣が口をあけて迎えてくれる。やがて前方に毘沙門様の鳥居が見えてくる。→石段を登り、灯篭・鐘楼の立つ毘沙門様の拝殿前の広場で小休止をる。拝殿の入口には犬養木堂の墨書「毘沙門天王」の扁額が掲げられている。裏手の磨崖の毘沙門天像を拝む。泉州石工の作と伝えられている。庚申山の像の方がやや秀作のように思えるから、こちらの方が古いのだろう。「石体毘沙門天王縁起」の案内板があって報恩大師のことが記述されている。→前途を案じて再出発。社殿の裏を通って坂道を登ると、「仕手倉山」「鷹ノ巣城址」「梵天帝釈天碑」「八大竜王碑」など記された道標が案内してくれる。この辺りは霊地イワクラであって、山頂に庚申の神が祭られていた梵天帝釈天の石碑が建っている。天正10年には毛利の軍勢が報恩大師開基のこの日差山寺の堂塔を陣城にしていた。懐旧に浸りながらさらに進むと庄方面に視界が開ける八畳岩(仮称)の上に出る。日差山南面の眺望は見事である。しばらく留まって先を急ぐ。倉敷市が開いたこのハイキング縦走路もこのところやや荒れ気味。倒木が道を塞ぐところが多い。やがて道沿いにある灌漑用の小池の堤道を通る。こんな高所の地にまで池がと昔の人の労苦が偲ばれる。→峰続きの江田山頂上に達すると道はなだらかな下りになる。暫らく進むと急斜面を降る山城特有の「堀り切り」に出る。これが「掘り切りよ」と声をかけながら下って再び登る。→進む道を石垣が遮る。攀じ登って城内に入る。急に視界が開けて足守方面を中心に百八十度に吉備の山野が広がる。稲荷の竜王山、高松城址、足守川、岩崎庚申山、そして眼下に造山古墳が俯瞰できる。四百年余り前小早川隆景を大将とする毛利軍が利用していた鷹ノ巣城址である。江田山の一角の断崖に巨岩が突き出たように散在するこの地は、中世にあっては霊地として「行堂」があったところでもある。一同歓声を上げながら眺望を楽しむ。子供たちは岩から岩へと伝い歩きをして楽しむ。黄砂を懸念して来たが、温暖で快晴の今日の天気はまさにウオークの醍醐味を満喫させてくれるに十二分である。暫らく眺望を楽しむ。幸いなるかな、丁度、山地方面からのご夫婦の登山者があり、記念写真のシャターを切って貰う。眺望を堪能したところで帰路に就くことにする。→一応の道順も分かったので帰路はマイペースで下山ということにする。最後尾に付いて行く。→往路で寄らなかった梵天帝釈天碑のある日差山頂上に廻ってみる。先頭にかなり遅れたらしく、前を行く人影はなく、後尾の三人で後を追う。→矢部まで帰ると旧山陽道を江田方面から帰ってくる先頭にバッタリ出くわす。こちらは、途中から道を変えたため予想外に時間がかかったという。→合流できて安心。真金山手線を渡って、黒住沖を通って小学校に帰着。12時半、少し時間超過をしたが、加茂の学区の余り知られてない風光明媚な眺望場所に登山したことで、一同今日のウオークに大満足。 次回のことを確認して解散。




116日。岩屋・犬墓山・鬼ノ城コース。

午前9時、鬼ノ城駐車場集合。快晴、訪問客はまだない。錦秋には今一ではあるが、辺りの山の紅葉の点在はさすがすがすがしさを覚える。「国文祭」の行事などで、参加できないものが多く、参加13名にとどまる。体操。昨年同様のコースに決め出発。→駐車場を出て岩屋への舗装道を下る。空気よし,景色よし、周囲の風景を愛でながら行く足取りは軽い。暫らく下り、近道を選んで山路に入る。朝の落ち葉を踏む感触は、山野を駆け巡っていた幼い頃を思い出させる。林を過ぎ棚田の続く道に出るとイノシシ除け用の電線が仕掛けてあるに気づく。俄然、前後からイノシシ談義が始まる。棚田の稲作の難儀をおもんばかる。道沿いの棚田で溝を開いている農婦を見かけ声をかける。先ほどの棚田は倉敷辺りから来られる50代のご夫婦が世話しているのだと聞いて胸が熱くなる。やがて山道を抜けて岩屋の駐車場に出る。人影は見当たらないが訪問客のだと思われ数台の車が駐車してある。トイレ休憩をかね小休止。吾妻屋づくりのベンチに車座になって、一ヶ月ぶりの談話に花を咲かせる。→続く会話を断って、備えの杖を借りて岩屋寺にむけて急な坂道を登る。人影のない民家が二軒。住む人の安否が気になる。→岩屋寺に着き昔日の繁栄を偲ぶ。平安時代、岩屋は、東の叡山と称せられた山岳仏教の聖地の一郭。真言宗の寺の境内には、大師1000年遠忌の記念碑が建つ。本堂前には「お講」に供えられたと思はれるカップの酒と小袋の塩。お寺の壁には五輪塔の解説のためか『空・風・火・水・地』の掲示あり。暫らく境内のたたずまいを偲んで、切石の石段を登って上段の毘沙門天堂に上がる。→毘沙門堂の先はかの有名な「鬼の差し上げ岩」の広場。見上げる巨岩の前で、温羅の棲家、桃太郎伝説、列島隆起説と解説が飛び交う。暫らく自然の神秘に圧倒されて呆然。→巨岩の横を攀じ登って「鬼の餅つき岩」から「鯉岩」。今年も「鯉」の姿を穿鑿する。結論の出ないまま先を急いで「八畳岩」に立って振り返ると鯉の姿らしきが望められ安心の笑い声。十余畳もある岩上からは、俗世間を忘れさせる静かな秋の山の景観が広がる。→整備された岩屋三十三観音道を辿る。馬頭と三面像の馬頭観音の前に出る。→其処を鋭角に折れて尾根道を南に進む。昨年同様に道の左右はイノシシに荒らされた歯跡が続く。来た道中でやや時間をとり過ぎた感があって歩度を速める。塩指し岩・方位岩の前を通り過ぎ南東方向に折れ、西の池の端を過ぎ、やがて木立に覆われた急な坂道を滑るように下る。「気をつけよ」の声が飛び交う。→標高で20mばかりを一気に下って王の墓に着く。岩屋寺の開祖、文武天皇の王子・善通大師の墓と伝えられる1m余の無名の無縫塔。説明板を読む。→其処から別の道を登って再び尾根道に向う。ウラジロのとてつもない大きい群生が続く。正月のお飾り作りを思い出す。→尾根に出ると時刻が気になり速度を速める。標高443m程の犬墓山山頂への道はややきつい。後部から速度を落とすようにと声がかかる。隊列を整え、互いに気遣いながら、木造りの階段を大股に登ると犬墓山頂上に着く。昨年休息をとった展望台には寄らず先を急ぐ。やがて尾根の樹間から、遥かに谷一つ隔てた向こうに鬼ノ城の西門が俯瞰できる。歩度を速め、声を掛け合いながらも一気に駆け下る。あっという間に鬼ノ城駐車場に帰り着いた。時計を見ると11時過ぎ、頃合に無事帰り着くことができてホッとする。

 →トイレ休憩の後、待望の弁当を車から出し、快晴の天気を喜びながら鬼ノ城山頂を目指して再出発。登山道を登る。下りてくる人、登ろうとする人、と次々に出くわす。角楼の壁を見上げながら頂上の展望台を目指す。→角楼には上がらずノロシ場から第一展望台に出る。数名の先客は居たものの予想していたほどの人数ではない。11時半、やや早いが腹の虫に誘われ弁当を開くことにする。秋の空にしてはやや霞んでいる。四国あたりの眺望が今一。それにしても標高397mの山頂からの眺めは素晴らしい。歩いてきた疲れは忘れてしまう。持参の弁当を拡げ談笑。今日のウオークの幸せを一気に感ずる。食事を終え、展望台の写真パネルを辿りながら、連なる山々の名前を我先にと名指す。休憩を十分とって再出発。→今その面影はないが、かつてのマツタケ産地時代を懐かしむ。200mほど過ぎたところから右折して礎石建物群の跡に向う。初参加の人もあって暫らく見学に立ち寄る。全国的にも最大級の山城の礎石建物。→其処を南下して東に折れ、僅かに水を湛える城中最大の沢の横を通って新設の展望台に出る。東方にゴルフ場や足守方面の家並みが眼下に望める。→暫らく足を止めた後、鍛冶工房跡に向う。今年度の調査区であるこの所は、今日はテントで覆われていてよくは見えない。鍛冶炉跡や鍛冶関連の遺物がかなり出土したそうだ。朝鮮式山城の内部に鍛冶工房があるのは全国的に珍しいようだ。→第五水門に下りる者も居たが大方の者はそのまま進んで東の突出部に出る。第二展望台と呼ばれるこの場所からの眺めは身の毛のよだつほど素晴らしい。屏風折れの石垣はただただ驚嘆するばかりで、古代人の知恵と労力には想像を絶するものを覚える。 ふと気づくと、昨年には美しかった緑翠の松が赤枯れているではないか。今夏の旱魃のためらしいが、残念。更に地面の土砂が洗い流されて来ているではないか。自然現象かも知れないが、少々気になる。暫らく眺望を楽しんだ後、突出部の石垣の人工美を前景に写真を撮ることにする。帰路に着く。→眺望のよい南側廻りにする。途中で山陽カルチャーのウオーク団の一行に会う。服部駅を起点に登山してきたらしいが、さすが若い元気な顔が続く。先刻寄った鍛冶工房のところから内側の近道を選ぶ。第二の突出部に出、再び屏風折れをバックに写真を撮る。→暫らく眺望を満喫して西門を目指す。→南門、高石垣、敷石と山城の施設を踏んで進む。→西門の手前を入口側に回って門構えの仕組みなどを観察して、遊歩道に出る。西門の姿がやや寂れてきた感を受ける。古代の建物のことはよく分からないが、もっと荒々しくがっちりしたものではなかっただろうか。建材がやや軽々しく感じられる。角楼のところから登山道に出て一気に駐車場に下る。下りの足は予想以上に速かった。→最後にビジターセンターの中庭のベンチに腰掛け、休憩をとりながら今までのウオーク反省点を話題にする。それから次回のウォークコースの確認をして14時解散。16,000余歩のウオークは、好天に恵まれ満足するものとなった。




102日山手方面吉備路コース。

9時造山駐車場集合。前日までの天気予報では雨になるかもしれないと心配していたのが、予報はずれで快晴の上天気。緑の造山が初秋の朝の空気に包まれ神々しい。まず体操の後コース確認をして出発。古墳の前方部への小径を登り、荒神社の裏手から稜線沿いに下って自転車道に出る。→総社市法蓮町内を走る旧新庄総社線を辿って鳶尾古墳を目指す。かっての往還道も静かな山の路。秋の山路は郷愁を誘う。山一つ超え下林地内に入ると、山あいの田んぼに豊穣の稲穂が波打つ。往来から田の畦を通って古墳のある山に入る。最近訪れる人が多くなって茂みの中に獣道が通じている。古墳の入口は土砂に埋もれて小さいが、腰をかがめて中に入ると長い羨道が続く。懐中電灯を忘れたのが残念、石室内を十分見れず引き上げる。→来た道を折り返して吉備路郷土館に向う。山間の池には釣り人が車を止めて糸を垂れている。裏手から館の入口に出ると閉館の札がさびしげに懸かっている。県財政不如意の末路であるが、残念の極み。石段を降って旧山陽道沿いにあた茶屋旧松井家母屋の前に出る。周りは以前と変わらず行き届いた整備がなされていて、松林の中に復元されているのが今更心和む。座敷に備えた小箱から手にしたガイドパンフには、やはり郷土館の記事はない。トイレ休憩を兼ね一息つくことにする。水筒のお茶が美味しい。隣の移築復元されている旧山手村役場の説明版を見る声が弾む。

→十分休息をとって再出発。こうもり塚古墳横を通って池沿いに松井の井戸に向う。池の中に錦鯉を見つけて鯉談義。土手はずれにある総社市三名水の井戸の中を覗きながら口々に博学を披瀝する。国分寺の僧と尼寺の尼さんの「ランデブーの場所だったそうよ」に笑いの渦がまく。看板には天皇即位大嘗会のときの和歌が二首。その中の一つ、藤原茂明卿の詠歌、「むすびあぐる 松井の水は 底清み 写るは君が 千代のかげかも」。→そこから国分寺に向けての道を行く。大きな構えの家の先で、「るり一華」の看板の一軒に魅かれて足を止める。誘われて中に入ると「シルクの造花」が廊下や部屋に所狭しと陳列してある。説明を求めて主に聞くと、最近引っ越してきた芸術家ご夫婦のアトリエ・塾・即売の住まいだ。主人は「うるし蒔絵」の作家だとのこと。作品に驚嘆してか、そこからウオークの体制がやや行楽気分に傾く。→「わらじの店」の前に出る。店の料理のよかった思い出を聞く。鄙びた店のたたずまいと、周りに今を盛りに咲く赤・ピンク・黄・白のコスモスが『風土記の丘』に花を添える。→国分寺の寺域の緑地の小径を横切って、勝手口から寺の境内に入る。何回訪れても五重塔の姿には心魅かれる。本堂を背に記念写真を撮る。シャッターを引いてくれた女の子はニュージランドからの学生をホームステイさせている一家の娘で、今日は郊外学習の案内をしているのだそうだ。写真撮影のあと暫時境内にいて、やがて山門を出る。参道を下っているとホームステイの学生の一行に出会う。

“Where are you from?”余計なことを口にしてみる。→門前から旧山陽道への道からは秋の田園に相応しいコスモスの花の咲き乱れ、その風情が心を癒す。気づくと既に11時になっている。予定外のスローピッチになっていた足を速めさせる。

酒造資料館で入館料を聞いただけで旧道を進むと、道の傍らに「平山郁夫スケッチあと」の標識に気づく。あらためて五重塔をふり返って見る。氏の作品の構図とは重ならないようだが、これが絵画芸術かもと納得させる。→帰路を急ぐ。山陰の道に大きなどんぐりの実が落ちている。待望の秋の到来近し。自転車道の途中で山手方面を目指す十名ばかりの一行に会い、声をかける。「灘崎方面から。」古墳に帰着する辺りで稲刈りを始めた人と会釈を交わす。造山町内に入ると、既に松の剪定がされているのに気づく。

古墳の駐車場には12時前に着く。整理体操は省いて、次回の予定確認。今日はのんびりウオークに終わった感はあったが、英気をもらった半日であった。




94日新庄上コース

異常気象の干天。熱中症患者の報道が続く昨今。中村橋緑地に8時集合。参加者14名。

黒江氏の号令で、まず体操。炎天を気遣ってコースの変更を申し合わせて出発。12月に登坂予定の「鷹巣城址」を遠望しながら足守川右岸を庚申山を目指して進む。今回は正面参道口から登ることにする。→まず寄進の一対の石猿が迎えてくれる。庚申山には狛犬はいない。その先参道口に泰然と立つ寛延2年(1749)建立の丈余の大鳥居は神名備の庚申山にふさわしく、庚申信仰の隆盛を語ってくれる。200段の参道は宝暦11年正月から翌年の8月にかけて完成されている。 大正時代から昭和の第2次大戦が始まるまでは、2ヶ月目にやってくる「庚申のお祭り」が子供も大人も待どうしくってたまらない行事となっていた。参道沿いには様々な物を売る屋台店が連なって賑わっていたと言う。現在も「庚申(かのえさる)の日の祈願が別当寺法華宗本隆寺上人によって執り行われているが参拝者は極めて少なくなっている。しかし、健康維持のために登坂する人は連日ある。私もその一人ではある。 そこから山頂を目指してスタートをきる。息をつかせる急坂なところもあるが、まず九合目まで上る。そこの坂横の小さな広場に高松商工会・観光協会の銘のある大きな案内板が建つ。庚申山の全体像が分かる。→参道の対面にお通夜堂の跡が見える。ごく最近までその場所に「お堂」が建っていたが、今は石の標柱のみ。本来この「お通夜堂」こそ庚申信仰の由来を表す場所である。この堂の中で善男善女が庚申の一夜を明かして無病息災と家運隆昌・子孫長久を祈願していたのである。→その先坂の正面に建つ前堂(まえどう)すぐ横を折れ庚申山で一番古い年号1680)を残す題目石の前に立つ。「南無妙法蓮華経」。→参道に戻って、前堂をくぐって石段を上り詰める。前堂の階上には寄進の絵馬が飾られている。→帝釈天社。拝殿の格天井の絵馬、壁の奉納額が昔の信仰心の熱気を髣髴とさせる。→広場の奥に鐘楼。戦後の再建に浄財を寄付してくれたアメリカの移住者のことが偲ばれる。→第二の石段の途中で宮内(みやうち)の侠客岡田屋熊二郎が豊島(てしま)の石工に造らせて寄進している子連れの石猿に会う。→その先に鬼子母神社60年目に執行されるこの社の「開扉」も数年後になっている。→そこから第三の石段を上り詰めると麓から300段弱上ったことになる。→向かいに明星天社。→隣が大梵天社。ここからの眺めは格別。太陽信仰の聖地の一つだと力説する歴史愛好家たちは、冬至の日にこの場所に集まって「ご来光」を待つ。午前710分過ぎ、東の吉備津新宮社の旧跡のイワクラの鉄塔横から毎年狂いなく太陽が姿を出す。稀に瑞雲だけで落胆させられる年もある。ここからは脚光を浴びる造山古墳が可愛らしく見える。何せ庚申山のイワクラこそが造山古墳造成の基だと主張する史家もいる。→梵天社裏には経文岩。その刻字に接すると、泉州石匠里山源兵衛のなせる技の見事さに今さら感動させられる。未だに願主「大野健子龍」が不詳なのが残念。→一段と高い所に人呼んで降臨岩。庚申山イワクラの中心岩が厳然と立つ。題目岩で延宝4年(1681)施主当村西田氏の銘がある。岩上には里山源兵衛造立の宝塔が輝く。→山頂に出ると、北面する磨崖仏毘沙門天。年次不詳、願主は長良村の前田氏。岩の側面に新庄村と赤濱村との境界を示す刻字あり。その拝殿の影を借りて一同休憩をとる。水分補給。話題は「熱中症」のことになる。→標高742mの山頂の高灯篭。新庄下千足世話人栗原源右衛門。年代は新しく明治27年造立だが、庚申山では一番大型である。→その左下横に新庄下の大山から移築されたと言われる妙見社。北辰菩薩を奉祀。→その山頂から例年とは逆に高塚地域に通ずる観音道を下る。樹木に囲まれた参道は緑蔭の有難さをひときわ感じさせてくれる。急坂の降りなので声を掛け合う。坂の途中には、観音さま六体が点々と麓から西国三十三観音順に祀られている。登りと違って一気に競歩で下る。→高塚参道口の鳥居に達す。安永7年(1778)造立の南無阿弥陀仏の名号碑。→数歩降ると昭和62年建立の霊場開之碑がある。30数年の間に世話人達が既に故人になり、当時のその人達の熱気が薄れたのが感無量で胸に迫る。そこから小径をクモの巣を払いながら南進。→庚申山観音霊場の一番施主吉備津の名士真野竹堂の如意輪観音と二番施主渡辺氏の十一面観音が並び立つ所に着く。親交のあった両者が、続く家族の不幸を菩薩の慈悲に縋って建立したと伝えられるが、親心の愛しさが身にしみて感ぜられる。→二体の観音石仏の建つ脇に、磨崖仏不動明王像の彫られている軟質花崗岩の巨岩が立つ。そのすぐ下は行者の深淵の行場がある。岩崎不動ケ嶽として寛永年中(16241643)から修験者の霊場となっていた。不動明王像は泉州石工の作と伝えられている。→その先に行くと、渡辺家の祀る文政13年(1830)建立の大地蔵尊像がある。→小径を下って小橋を渡り砂川に出る。嘗て分水に使われていたとする亀石はなく、昭和25年秋竣工の岩崎分水所堰がまばゆく炎天下に輝く。用水の分配の便向上と砂川流域の排水改善のために設立されたこの施設からは、先人の洞察と尽力に敬服させられる。必須公益のためとは言え巨費をかけての国営事業は、慎重なる考察の基に住民公益のためになされなければならないと改めて痛感する。逆光ながら堰門を背に記念写真を撮る。→加茂用水の取り入れ口を確認。ここから足守川の下をサイホン式に通って三手・津寺方面に放水している。→踝を返して右岸の土手を北上し、砂川に懸かる高塚橋を渡って左岸に移る。→北上すること200mで通称高塚に達す。この円丘は、「吉備郡史」の記述によると「高塚」の地名の由来にもなった古墳だという。学術的調査がなされてないので古墳という断定は下せないものの、地域の人によって石の標柱が立てられている。→そこから岡山総社高速道沿いに南下することわずかで、高塚遺跡「銅鐸出土地」付近に達する。高速道の下になっていて目印になるものは何もない。十数年前に関係機関に訴えたが力及ばず、未だに標識がないのが残念。→その下から高速道下の隧道を抜けると高塚本村の見える所に出る。隋道の日陰から高塚天神社や高石垣の松尾邸(旧渡辺家)を遠望する。高塚地区は、諸河川の合流地で、たびたび氾濫水害を受けてきた。→そこを南下して次の隧道を潜って再び西側の高塚流砂場に出る。→この地一帯の改修整備のために20mほど移転された六地蔵が草原の一角に西向きに安置されている。尊顔を拝むと炎天下の中にも安らぎを覚える。→広い流砂地には排水機場樋門が点在す。→砂川の左岸に着き、先刻対岸から見た加茂用水の取り入れ口の上に立つ。ゴミ除けの大きな浮き袋が連珠のように繋がれている。→巨大な分水堰の上段の通路に鉄製の階段をよじ登る。現場に来ると樋堰の大きさに圧倒される。減水期間ではあるが流量に安心感を覚える。→堰から庚申橋までの土手の草叢のゴミが掃除されていて気持ちよい。ボランティアに感謝、感謝。→足守川の土手を南下して中村緑地に帰着。全員無事。広場の小屋で休息をとりながら次回の打ち合わせをする。今回は即決変更で、炎天下のウオークではあったが、何か満足感の残るコースになった。




87日、惣爪コース。

 7時加茂小学校16名集合。暦の上での「立秋」、昔の人はよく言い当てていて、どことなく日差しの柔らかさを感じる朝。体操も気持ちよい。それでも、昨日までの日射を懸念して早めに切上げることにして出発。学校を出て黒住橋を渡り、足守川右岸を南下。ウオークの醍醐味、早朝の川風は冥加に尽きる。新黒住橋から北に向う。→矢部の真言宗仁和寺派宝泉寺に上がる。ここは高松城水攻め期の河屋城跡。降って旧山陽道に出、横向の地藏尊像を拝む。「道」沿いに斜めに設けられた鉄製の階段を上って鯉食神社の境内に入る。弥生の「墳丘墓」としても、「神社」としても見逃せない旧跡。10年余前に姫路の人が拾った「弧帯紋の小石」の話で色めく。境内を出て、立派な「道しるべ」の標石を横目にして、再び足守川に出る。新矢部橋を渡り、左岸を南下。→惣爪塔跡を土手から俯瞰する。いつの日か、かの「津氏」の研究が俟たれる。→御野立所に登る。大正元年、村民は表彰の碑を建立するため、土地を提供し、勤労奉仕作業で土を盛り、玉垣をめぐらし、梅松桜数十株植えたと言う。世界の平和を希求する今、「龍蹤(りゅうしょう)表彰之碑」は大正初期の日本の国状を知る貴重な史跡であろう丘を降って自転車道を東に向う。田の面を揺らす風は気持ちよい。沿道の川の流れに小魚の影を見て安らぐ。しかし、つかの間、側溝壁を見て唖然とさせられる。無数のピンク色のジャンボタニシの卵が無表情にへばりついているではないか。「これ何とかしなければ!」 昨年わが町内では、呼びかけて多勢の者が水田を這い回ってこの卵を退治したのを思い出す・・・。→惣爪八幡宮の鳥居をくぐると、きれいに清掃が行き届いているのに頭が下がる。拝殿内に入らせてもらって算額・絵馬を見る。5つの摂社・記念碑を確認。会員の高原氏より、境内から見える氏の豊財庵について聞く。六部、寂巌、宝島寺、真染和尚、等々話が続く。日照もきつくなったので先へと急ぐ。真金十字路、轟橋を省いて、旧山陽道沿に西進。→一等水準点題目石。旧焼場の跡だそうだ。→寺子屋の跡地。師の上人は矢掛横谷の洞松寺の僧として勤める。→岡○(土ヘンに丸)神社→腰投げ地藏。→加茂小学校帰着。十時半次回を確認して解散。小学生一人参加。も少し欲しい。




73

 予定では「造山・黒住コース」、午前7時集合の日。しかし早朝より雷鳴が轟く。早速177の天気予報にダイヤルすると、岡山地方気象台発表の気象情報として、「備中南部では、大雨・雷注意報、倉敷・高梁地域には大雨洪水注意報、降水確率80%・・・」と伝えている。役員相談の結果、残念ながら今回は中止と決定、会員に連絡。

 ウオーク記の代わり、私たち加茂地区の四「ウオークコース」の地図をお知らせします。
                            (PDFファイルで開きます。)

6月5日

木堂記念館駐車場8時集合。小学生1名を入れて19名。昨日から急に暑くなって、予報では最高28℃まで上がる快晴の朝。体操の後、ガイドの方の待つ吉備公民館へと急ぐ。約束の8時半、きよう案内してくださる吉備・綾南観光ガイド班の香田・中島の両氏に会う。公民館へ入って伝統工芸品の「撫川うちわ」の説明を聞き、西回り・東回りの二班に分かれて出発。鴨方往来に入り、白壁の商家の並ぶ旧街道を行く。→南に折れて庭瀬港常夜灯。鎌倉時代から備中物産の積出港として栄えたという。→南下して松林寺。位牌堂を開扉していただき板倉藩主にまみえる。→その先は日蓮宗の不変院。本堂前の大きな法界様。境内の一角には戸川家の大きな五輪塔二基。→そこから西方に行くと庭瀬城。藩主は戸川氏・板倉氏と変わっているが居城は石垣に囲まれ、堀には水が湛えられ、かの有名な大賀ハスが夏を目指して淡緑色の葉を広げている。西回りのグループと落ち合ったところで記念写真を撮る。→今は門を閉ざしている「撫川うちわ」再興の板野氏宅。氏の業績を聞く。→撫川城址。昨年にはここの城門前で写真を撮ったのを思い出す。城外に出て三村家親が沼地に築いた野面積みの見事な石垣を望む。否応なしに戦国の厳しい時代のエネルギーを回想させられる。→大手門に使われていたと言う太鼓橋を渡って鴨方往来に出ると見事な道標が目を引く。→住吉神社に入る。神社の謂れと境内に移転されたという常夜灯について聞く。→町並み歴史ギャラリーの写真図を見ながら東進す。→昨年建設中であった観音院の新山門が誇らしげに完成建立されていた。→石灯篭、信城寺を経て予定の散策コースを一周して、もと来た地点に帰る。→吉備公民館へ帰着し一息ついたところで、地域の史跡旧跡の観光案内ビデオを見せていただき、ガイドの方々と別れる。帰りは、往路とは別のコースで木堂生家を目指して北上する。田んぼの中に祀られている三玉宮を遠目に見て過ぎる。→木堂生家・記念館に入り、足早に遺品・特設展示の遺墨等を見て回る。「木堂塾」の和室の座敷前で「見事な蝋人形が座っている」と噂していると、突然姿が合掌ポーズに変わり一同びっくり。座禅修行の男性と分かる。→生家を後に墓所に立ち寄り駐車場に帰り着く。11時40分次回の予定を確認し解散。



5月1日

 高松駅9時集合。参加者23名(1名幼児)。昨日まで続いていた春の嵐も治まり絶好の行楽日和。923の電車に乗り岡山駅。駅前の噴水のところで2班に分かれる。ガイドマンは井上氏と磯崎氏。早速駅前の「桃太郎像」から説明が始まる。桃太郎像が女木島を向いていることから始まって、道路沿いの立像から街燈の飾りまでが岡山の観光案内を担っているのを聞いてびっくり。西側に出て北村西望の彫刻像・残念石を見て、桃太郎大通りに沿い柳川交差点。北上して本行寺の山門に残る戦災の傷跡。東進して岡山藩藩学跡。さらに岡山神社。旭川河畔に出て右岸を下り、石山公園を通って岡山城へ。石垣の野面積・打ち込み萩工法を見て、廊下門をくぐり中段の表書院跡の広場へ上がる。月見櫓・古井戸、流し台遺構等。くろがね門を通って「本段」に出る。金箔の烏城天守閣が春陽に映える。南東の一角に並べられた天守閣の礎石・雁木門の説明を聞く。折しも広場の芝生のあるところでは、コンベンションセンター主催のイベントが催されさほど数多くない観光客が見物している。天守閣を背に記念撮影をする。再び廊下門を潜って城外へ出、月見橋を渡って後楽園正門に回る。全員が揃ったところで入園、昼食場所を求めて「桜林」まで歩く。場所良し頃よし持参の弁当を広げて楽しみの昼食を摂る。50分ほど歓談して見学に移る。→花交の滝・花交の池・茶祖堂・梅林・千入の森・井田・茶畑・慈眼堂。広い芝生の向こうに岡山城が望めるところに撮影の腰掛がされているのでその横を借りて記念撮影。鶴鳴館・延養亭・能舞台・花葉の池・栄唱橋・大立石・茂松庵・地蔵堂・御舟入跡・南門・廉池軒・蘇鉄畑・唯心山・流店・花菖蒲畑・中ノ島。腰掛茶屋の横が写真撮影によいと聞き、再度記念撮影。→観騎亭・馬場・鶴舎・観射亭。少々歩きつかれて小休止。ソフトクリームが美味しい。2時半を回ったところで退園。帰りは井上さん一人のガイドとなる。→鶴見橋→大河原農機の店頭で社長の大河原喬さんにたまたま出くわし、懐かしく挨拶を交わして、国吉康雄の生誕跡地に案内してもらう。→後楽園通りを西進して西川緑道公園に出て、青柳橋のデザインに納得。→岡山駅に帰り着いたところで、新装西口を見学することに成る。3時23分発の電車で高松駅に全員無事帰着。4歳の智彦君「お疲れさん。」駅前の広場で次回のことを確認して解散。ガイドの井上さん「案内ご苦労さんでした。」

4月4日  

加茂小学校9時集合。参加者21名。今年は幸先よく天気良好。体操の後、昨年同様のコースに向う。→楯築遺跡では収蔵庫の亀石(弧帯文石)を覗いたり、頂上部の不思議な巨大石に論を飛ばす。→王墓山に入り、昨年見落とした井原浪形産の貝殻石灰岩の家型石棺に会う。→真宮古墳群の中を通って、新幹線高架を潜りバラ園に着く。春の日差しを浴びて桜の花の下での早めの食事。道化師のおじさんが笑顔を向ける。政界に出馬希望の女戦士が握手を求める。「世のため人のために」と思わず天を仰ぐと黄砂に霞む空。1時前に園を後にして、可憐な花の咲く野中の道を通って岩倉神社に達す。本殿裏に回ってご神体の巨岩を拝む。鐘楼の鐘の銘文を読む。気持ちよい疲労を感じながら→日畑廃寺、日畑城址→御野立所→腰投げ地蔵を通って学校へ無事帰着。次回の連絡解散・