平津連合町内会
 


学区の紹介

平津学区の概要 

市街地の北西部に位置し、北は馬屋下・桃丘・横井、東は津島・伊島、南は大野、西は中山学区に隣接しております。

交通の便は非常に良く、北には岡山空港、山陽自動車道(岡山インター、吉備サービスエリア)、東は国道53号線に接しJR岡山駅に近く、西には国道180号線が学区を横切っており、また学区中央部には岡山西バイパスの開通が決まり工事が行われています.

地区の南には岡山県二級河川笹ヶ瀬川、西は中川、北部は多くの丘陵地に囲まれ農産物として桃やぶどう等の果樹栽培、稲作、野菜つくりが盛んに行われています。

地区中央部を走る県道上芳賀岡山238号線沿いには県立一宮高校、歯科技工専門学院、多くの医療機関、福祉介護施設、大型商業施設があります。

なお、吉備路の起点として吉備文化の遺跡を多くとどめています。首部には桃太郎伝説にも語れている白山神社もあります。

 2 平津地区の人口・世帯数の概要
 人口 3,778

男性1,784人
女性1,994人

 世帯数  1,564世帯 
 3 平津学区の面積


 
 4  平津学区の歴史素描

平津略記

平津の地は約二〇〇〇年から三〇〇〇年程以前は海であり、海人(あまびと)と言われる海上生活者と同時に首部の坊主山から西楢津の楢津山の陸地に住していた人々は山の上まで各種作物を耕作していました。

 津の付いた地名は全国に多く有ります。津は港のこと・浦は水が入り込んだ所・崎は海に突き出している場所です。平と楢は津をならす。たいらにする意味で共に同じ事です。汽水域にいるヤマトシジミや海水に住むハイガイの出土の貝塚が東楢津にある縄文貝塚です。又、東楢津・中楢津・西楢津に古墳群が有ります。何れも海に向かった各山の南面に造られています。神社は首部から山浦にかけて約6社あり海に向かって造営されています。主な社として、首部の白山神社は約千年の歴史が有り境内の首塚には諸々のいわれが書かれています。このいわれの一つとして源氏と平氏の戦いが笹ヶ瀬の当地でありました。この戦いで平氏は負けて、やがて壇ノ浦で最後をとげました。

中楢津の若宮八幡は境内に立派な大日如来の石仏と石塔があり、室町時代の物と言われます。江戸時代に本殿や門等の改築記録が有ります。

西楢津の天津神社には平安時代創建の伝えがあり、一〇七段の石段を登ると、流造の本殿と共に末社(まっしゃ)も向かえてくれます。

一三〇〇年程前の奈良時代に耕地を縦と横に区切った土地に名前を付けた制度が出来ました。条里制です。これを基に大和朝廷は税金の徴収を始めました。一の坪・十の坪等の地名が現在も残っています。その基となる線を陌線(なわてせん)と言います。

吉備津彦神社の参道を東に一直線に延ばした道です。夏至の太陽の出る線と一致します。

一宮と楢津の条里の境目が西楢津にある寒(さい)の神(道祖神とも言う)です。この時代の道は大和朝廷が、中央から地方への政治力の拡張に大切なものでした。

北九州の大宰府への山陽道は現在で言えば国道一号線に値する重要な官立の道です。でも人と馬がやっとすれちがいが可能な巾でした。九州は、大陸や半島からの文化等の重要な入口でした。その道には約二〇K毎に馬を置いて駅としました。馬屋下とか馬屋上に名を残しています。

現在の駅の字に馬の字が付いている。この重要な山陽道が一時代楢津を通っていました。しかし時代が変わり江戸時代には池田氏により今の矢坂から市内京町に通る道に変わっていきました。時代と共に当地平津も大きく変化していきました。

平成二五年三月 記す

入江竜令


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